第95話

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第95話

 仕事は順調なのに、恋愛はちっとも順調じゃない。なんだか急に伊織に会いたくなっていた。  足早にマンションに戻ろうとしたところで、入り口のベンチに座っている人影に驚き、歩みを止める。 「……直登?」  みちるの声に気付いたのか、直登は立ち上がるとニコニコしながら手を振ってくる。 「帰ってきていたの?」 「急に戻れることになったんだよ」  それなら、連絡が欲しかった。メールの一通もできないわけではあるまい。そのまま言葉が続けられないでいると、直登は困ったような表情になった。 「それより中に入らない?」 「そうね」  マンションのエントランスに入ると、直登は「寒かった」と両手をこすった。彼氏と会えて嬉しいはずなのに、心がザワザワする。 「どこか行ってたの?」 「仕事先の人に食事に誘われて」 「珍しいね。前は断っていなかったけ?」 「大口の契約先なのよ」  そうなんだ、と直登はソワソワし始める。なんだろうと思っていると、彼が口を開く。 「みちる。今夜泊めてくれない?」 「え?」  直登がそんなことを言うのは初めてだ。 「ダメかな?」 「それは……」  本来ならば「いいよ」と言うべきだ。だが、部屋には今、伊織がいる。そしてそれを直登もきちんとわかっているはずだ。 「弟くんが居るって、前に言ったよね?」 「居てもいいよ」 「そういう訳には」 「それって、本当に友達の弟?」  直登の目が笑っていないのを見て、みちるは背筋が凍り付いた。 (――疑われている?) 「ほんとに弟よ。疑っているの?」  直登はそれに答えられない。みちるはため息を吐いた。 「今日は帰って」 「みちる、でも」 「帰って、お願い」 「謝りたいんだよ、ちゃんと。だから――」  別の日にしてと直登を退けると、みちるはエレベーターに乗った。直登はそれ以上は追いかけてこなかった。 「あれ、みちるさん大丈夫?」  部屋に入るなり、伊織が駆け寄ってきた。 「……泣いてるの?」 「伊織くん、ごめん。ちょっと胸貸して」 「いくらでもどうぞ」  優しい笑顔とともに、伊織はみちるを抱きしめてくれる。ぎゅううと強く抱きしめて持ち上げられると、ソファに運んで頭を撫でてくれる。  ずっと、会って触れたいと思っていたはずの彼に会えたというのに、家に泊りたいと言ってくれたのに。  まさか、嬉しいはずの出来事によって、自分の気持ちが冷めきっているとわかるとは。  それは、今までの十年間を虚しいものにしてしまったような気がした。 「無理みたい、もう……直登とは……」  青春をすべて費やして、気持ちをずっと向け続けてきたものが、突然崩れてしまった。  その衝撃はすさまじく、みちるは涙が止まらない。 「我慢しないで泣いてね、みちるさん」  みちるは嗚咽をこらえられず、伊織にしがみついて泣いた。伊織が居てくれることが、伊織のにおいに落ち着いていることが、余計に現実を突き付けてくるようで苦しい。  気持ちが冷めてしまったと認識したくなかったのに、やり直せる糸口を見つけられたらよかったのに。  それを見つけることができなかった。  だからみちるは直登に連絡をした。別れるための決意を胸に。
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