第96話

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第96話

 泣きじゃくったわりに、朝からすっきりしているのは伊織のおかげだ。  保冷剤とカイロで目の腫れを最小限に抑えられるようにしてくれ、みちるが寂しくないようにずっと手を握って寝てくれた。  朝には、みちるの大好きなたらこのおにぎりとお味噌汁。 「伊織くん、今日ちょっとだけ遅くなると思う」 「わかった。なにかあったら、すぐに連絡してね」  伊織はみちるになにが起こっているのか、無理に訊こうとはしてこなかった。伊織は自分よりも、ずっとずっと大人だ。 「行ってきます」 「いってらっしゃい、みちるさん。待ってるね」  毎朝伊織は行ってきますのキスをねだってくるのに、今日はしてこなかった。みちるは出ていこうとしたのをいったん止めて、伊織に向き直る。 「どうしたの?」  みちるは伊織に近づくと、両手で彼の顔を包み頬に自分からキスをした。 「行ってきます!」  びっくりしている伊織に背を向けると、部屋を飛び出した。エントランスの鏡で全身をチェックし、背筋を伸ばして駅へ向かった。  今日一日も恐ろしく忙しい。デザイン案をいくつも出して、精査しなくてはならない。  タスクチェックを電車の中でしていると、直登からメールが届いた。  昨夜、泊められなかったことを謝るのと同時に、話をしようと連絡をしてある。  場所は、以前浮気のことを聞いたファミレスだ。本当はもう、あの時にこの恋は終わっていたはずだった。  今日やっと、終止符を打てる。  頑張らないとと思って出社したら最後、忙しさのあまり休憩もほとんどとれずに、夕方になっていた。  しかし、事務所のみんなで集中したおかげで案がまとまった。みちるはすぐに博嗣へのメールに資料を添付する。しばらくすると、返事が来た。 「えっ……」  結果はイメージと違うので作り直してほしいということだった。いったん頭を冷やすために休憩室に入ったところで、携帯電話に博嗣個人から連絡が来る。 『大まかなコンセプトはOK、細部に問題あり。時間を取って話そう』  電話をすると、博嗣はすぐに出た。 「打ち合わせの日程を決めたいんですが」 『君は、仕事のことになると熱心だね。そこがいいんだけど……』  今からなら時間が取れるということで、直登との予定が迫っていたが了承した。外回り後直帰と伝え、資料をカバンに詰め込むとすぐにデパート内の会議室に向かった。 「ご足労いただき恐縮です」  マネージャーとしての顔で出迎えた彼と向き合いながら、机に出来上がったばかりの資料を並べて二人で打ち合わせが始まった。  会議と言っても、博嗣は堅苦しくするつもりはないらしい。少々気を抜いたようなフランクな姿勢と表情だった。 「イメージは良いんだよ。さすがだなって思う」 「ありがとうございます」 「でも、たとえばこの装飾。オシャレな服を着て出かけるのに、これだとグランピングに行くみたいだ。こっちもそう。顧客の年齢層が感じる『素敵』と少しだけ乖離している」  若手たちに頼んだイメージの多くが、博嗣の指摘するようにフレッシュすぎる。 「それが悪いわけじゃないんだ。意図は伝わっているから……」 「ワンランク上を意識させる効果が高いものを、ってことですよね?」 「そういうこと。さすが」  博嗣はパッと表情を明るくした。 「バランスを変えましょう。基本はこのスタンスで考えますが、フレッシュさを活かしつつ、よりゴージャスに。六〇年代のイギリスのような、レトロ感を出すのはどうですか?」 「うん、良いと思う。いまファッションはレトロを取り入れるのがきている」  いいヒントをもらえたので、みちるはすぐにメモを書きこむ。思いついたイメージも可能な限り言語化しておいた。 「明日、会議にかけます。再提出まで数日待ってもらえます?」  博嗣に確認を取ろうとすると、すぐ近くに彼の顔があった。集中しすぎていたため、こんなに近づかれていることにさえ気づかなかったようだ。 「映画から受け取るインスピレーションは六〇年代でもいいんだけれど、服装は五〇年代のほうがいい」 「わ、かりました」 「はい、じゃあこれで打ち合わせ終わりね」  距離を取ろうとすると、行動を読まれていたらしく一歩つめられた。 「で、彼氏とは別れた?」 「……まだです」 「いつ別れるの?」 「もうすぐです」  博嗣はニコッとほほ笑む。 「けじめがついたら、また誘ってもいい?」  みちるは両手で博嗣を押しやった。 「だめです。好きな人……います」 「へえ」  みちるは体勢を立て直す。 「立て込んでいるんです、今。だから」 「まあいいよ」  あっさり引いてくれたのでみちるはほっとする。そして時計を見て仰天した。直登との約束の時間を、二十分も過ぎている。 「あの、お時間を取っていただきありがとうございました。またご連絡しますので」  資料をかき集めると、みちるは慌ててデパートから出た。
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