第97話

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第97話

 幸いにも、ここから約束した場所までは電車でそう遠くない。急いで向かおうとしていると、直登から着信があった。 「もしもし直登、ごめん……今向かって」 『みちる。今どこ? 俺もさっき出先から帰れることになって……』  最寄り駅を伝えると、直登はちょうど駅の反対側にいるらしい。直登のほうがこちらに来てくれるというので待っていると、しばらくして地下の階段から現れた。 「みちる!」  いつもの待ち合わせと同様に、直登は手をあげてくる。合流できたことに安心はしたけれども、胸のときめきはなかった。 「場所どうしようか。ゆっくり話せるほうがいいよな。レストランは今から予約できるかな」 「あのね、直登」  行きかう人々は、みちると直登の二人に見向きもしない。それが都会のいい所だ。みちるはレストランを検索し始めている直登の携帯電話の画面を、手で隠した。 「なんだよ、今、場所探してるのに」 「別れよう」  きっと、ちゃんとした場所で言ったほうがよかっただろう。でも、もうそんなことをする時間を費やしたくないと思うほど、みちるの中で直登の存在は思い出に変わりつつあった。  今ここで、別れを切り出さなかったまたズルズルしてしまう。  一番恐れたのは、それだった。 「なにいってんだよ。結婚だって考えてるって」 「うん。それはありがとう」  でも、とみちるは呼吸を整えた。 「でも、私は直登とは結婚できない」 「浮気したからか?」 「それもあるけど、ずっと気持ちがすれ違っている気がする。お互い、長い間一緒に居たから、都合のいいようにしていた部分があったと思う」  いわゆる『キープ』の状態になっていることで、一人ではないという立場を得ていた。でも、ただそれだけだ。  お互いを想いあっているわけではなかった。 「私、もっと前に進みたい」 「だったらなおさら、結婚すれば前に――」 「それは前に進むんじゃなくて、現状維持の形が変わるだけでしょう?」  結婚するのなら、もっとお互いの今の生活や仕事についてのことを話し合わなくてはならない。それらを置いてきぼりにして結婚したら、いったい今となにが変わるというのだろうか。 「怒ってんのかよ、みちる」 「そりゃ怒りたくもなったけど……」  自分だって、伊織と同じようなことをしている。直登だけを責められる立場ではない。 「けど? けど、なんだよ」  痛いところをつかれて、みちるは言葉に詰まる。直登はみちるが逃げないように、腕を掴もうとしてきた。その時、みちるの電話の着信が鳴る。  博嗣からだ。 「取引先だ」  直登に確認もとらず、みちるはすぐに電話に出た。 「今村です。どうされました、大橋さん」 『資料、一枚忘れていったみたいなんだ。まだ近くにいるなら届けるけど』 「すみません。ちょっと今立て込んでいまして」  直登は振られると思っていなかったのか、納得のいかない表情でみちるの様子をチェックしている。みちるは背を向けた。 「いえ、あの、今から伺います!」 『俺、もう上がりなんだよ。駐車場がしまっちゃうから、できれば出たくて』 「でしたら」 「――……みちる、本当に仕事の電話?」  直登が後ろから耳を近づけてきた。避けようとしたのだが、手首を掴まれたせいで、電話が耳から離れた。 「男の声がするけど」 「仕事の電話だってば、放して」 「だったらこっち向いて――」  みちるは立ち上がると「大橋さん、かけ直します」と通話を切った。 「大きい取引先との仕事の電話なの」 「でもそれ、お前の個人の携帯電話だろ」 「そうだけど」 「プライベートでも電話するのかよ? 本当に仕事か?」  話がややこしくなってしまった。どうするのがいいのかわからない。  丁寧に説明するには、博嗣と出会った経緯から話すのがいいはずだが、出会いが婚活パーティーのため絶対に直登は誤解するに決まっている。 「仕事とプライベートを分けられなかった直登に、とやかく言われたくない」 「おい、どういう意味だよ」  直登は今度、みちるの腕を強く掴む。 「浮気したじゃないの、会社の子と」 「反省したからみちるとの結婚も考えてるんだろ」 「反省していなかったら、考えなかったの!?」  腕を放してほしかったのに、直登の指が痛いくらいに食い込んでくる。もともと力が強いのだから、物理的に彼から逃れるのは不可能に思えた。
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