第99話

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第99話

 博嗣の話は、埠頭に船が到着したところからすべて噓だったらしい。 「駅前の居酒屋の呼び声が聞こえたから、まだ近くに居るんだって思ってね。なんだかよからぬことに巻き込まれてそうだったから」 「大変ご迷惑をおかけしまして……」 「いいよ。困っている人を助けるのは、人として当然のことだから」  いい人だなと思ってやっと安心したところで、信号が赤に変わる。博嗣が運転席から覗き込んできた。 「貸し一つにしておいてあげるよ」 「……いい人だと思っていたのに」 「いい人でしょ。ちなみに、本当に困っていた?」  訊かれて事情を話すと、博嗣はそれはヤバいなと苦笑いになった。 「俺が思うに……ああいうタイプは執着してくるか、プライドが傷ついて二度と関わってこないかのどっちか」 「後者だと思いたいです」 「万が一前者だったとして、警察呼んだって伏線が効果発揮すると思うよ」  あのままだったら、少しゴタゴタしていたに違いない。海沿いの景色のいい場所まで来ると、車を停車できるところに置いて外に出た。  海風に当たっていると、やっと気持ちが落ち着いてくる。まだまだ風は冷たかったのだが、春の気配が感じられた。 「はい、コーヒー。寝られなくなっちゃうかな?」 「ありがとうございます。いえ、たぶん寝れるかと」 「コーヒーってぜんぜん効かないよな。香りがいいからリラックスできるけど」  温かいカップに手を添えると、指先から心の奥まであたたまるようなきがする。 「私は、直登……彼氏のことをとやかく言えないんですよ」 「へえ。浮気でもした?」 「ギリギリ、微妙なところです」  仕事も恋も頑張りたい。精一杯幸せになりたい。  それが、こんなに難しいとは思わなかった。 「みちるは好きな人が居るって言ってたよね?」  よく人の話を覚えているなと、今度はみちるが苦笑いした。 「もしかして、一緒に住んでいるっていう、友達の弟?」  答えられないでいると「図星ね」と博嗣はため息を落とした。 「それ大丈夫なの?」 「え……?」 「なんかさ、みちるって恋に恋してる感じがして」 「それはどういう意味ですか?」 「恋って、そんなにきれいなものじゃないと思うけど。大人になればなるほど、不純度が増していくものだよ。打算的で、狡猾な手段を使って、相手を蹴落とすことだってある」 「つまりそれは、私が世間知らずだって言いたいんですが?」 「ストレートに言えばね」  博嗣はコーヒーを一口飲んだ。 「目の前に現れる、ちょっと優しくしてくれる人を好きになっちゃうのって、危ないと思うよ」 「伊織くんは危なくなんか」 「その子の生年月日は?」  急に聞かれて、みちるは口をつぐんだ。 「血液型は? 好きな食べ物は? 兄弟は? 専攻は? 親は、みちると一緒に住んでいることを知っているの?」  そのどれもに答えられないでいると、博嗣はため息を吐いた。 「傷心中の君に言う話じゃないけど、一応は警告しておくからね」 「心に留めておきます」 「付け入られやすそうだよ、みちるは」  そんなことないとは、はっきり言えなかった。直登の時も初めは向こうから、伊織も結局は押し切られてしまっている。 「仕事の時の君はしっかりしているのにね」 「自分でもそう思います。恋愛向いていないみたい」 「君のことを十分愛してくれる人と一緒になるか、恋愛もビジネスととらえるか……」  直登は残りのコーヒーを一気に飲み干した。 「ひとまず、自称弟くんには要注意だよ。君の弱みに付け込んでいるように思う」 「わかりました。今回の件で懲りたので、落ち着いて様子を見てみます」  伊織とのことが頭をよぎる。たった数ヶ月しか一緒にいないのに、色々な思い出が鮮明に思い出された。  そして、ハッとした。その瞬間、博嗣に覗き込まれて、みちるの思考が停止する。 「傷ついたら俺のところにおいで。いつでも慰めてあげるよ」 「ビジネス的な恋愛というやつですか?」 「解釈は任せる」  直登は風になびいたみちるの髪の毛を耳にかけると、冷えて赤くなっているそこに唇で触れた。 「帰ろう。送っていくから」  みちるはゆっくり頷いた。
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