137人が本棚に入れています
本棚に追加
第100話
マンションのエントランスまで博嗣は車を横付けしてくれた。
「すみません、プライベートなことに巻き込んでしまって」
「そこまで巻き込まれていないから大丈夫」
「ありがとうございました」
車を降りようとしたみちるは、いったん手を止めて博嗣に向き直る。
「どうしたの? 気が変わって、俺のところに来たくなった?」
「いえ……そうじゃなくて」
みちるは帰り道、ずっと考えていたことがある。まっすぐに博嗣の目を見た。
「恋愛を怖がるのをやめようと思います」
「どうしたの、いったい?」
「ちゃんと向き合ってみようって思って。逃げるんじゃなくて、前を向きたいって。さっき、大橋さんが助けてくれたのは格好良かったですしすごく嬉しかったんです。でも、だから好きになるとかキスしたいとか、そういうのとは違いました」
よくしてもらったのに、こんなことを言って平気だろうか。続けて、と博嗣が促してくれたので、みちるは口を開いた。
「本気で自分のことを好きでいてくれる人と、本気でぶつかりたいです」
「俺が本気じゃないって?」
「だって、大橋さんが好きなのは、ビジネス的な恋愛でしょう?」
博嗣は肩をすくめた。
「後腐れのない、利害関係が一致する恋愛。それを恋愛と呼ぶかわからないけど、俺はそもそも面倒くさいのが嫌いでね。仕事柄、面倒なことのほうが多いから」
「それなら、私は一番不向きな対象です」
「仕事頑張っている女性が好きなんだよ。みちるはまさにそれ、見た目もストライクだけど」
「それは私の一面で、面倒くさくてグズグズな私のことは、たぶん大橋さんは嫌いだと思います」
博嗣は意味深に口の端を持ち上げた。
「でも君は、面倒くさくならないようにうまくやるだろう?」
「いままでなら、それで傷ついても隠したと思います。でも、これじゃまた同じ轍を踏んでしまいます。傷つかないようにするんじゃなくて、たとえ傷ついてもそれと向き合って糧にできるような関係を……そんな恋愛をしたいです」
思えば、こんなふうな恋がしたいというのを、ずっと昔からあきらめていた気がする。学生時代ずっと彼氏が居たことも関係するかもしれないが、恋愛に対する明確なイメージがなかった。
自分が幸せになるイメージが、お互いに、好きな人と築き上げる信頼関係のイメージが、今は明確に持てる。
「変わりたいんです」
今もずっと、部屋でみちるのことを待ってくれている人がいる。付け入られたのかもしれないが、伊織は嫌がることをしてこない。きちんと対等に向き合ってくれる。
それは、みちるが今から全力で向き合うべき相手であることは間違いない。
「借りは仕事で返します」
「いいね。みちるのそういうところ、すごく好感が持てるよ」
博嗣はふふっと笑う。
「頑張っておいで。変わりたいと思った時にしか、人は変われないから」
「はい!」
博嗣はひらひらと手を振る。お辞儀をして見えなくなるまで見送ると、みちるは帰ろうと踵を返した。
伊織の待っている、あの部屋に。
最初のコメントを投稿しよう!