第8話

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第8話

「じゃあ、私はずいぶんと前から大人だわ。学生の時から、ブラック派だもの」 「げ。それじゃあ、俺成人しているのにずっと子どもだ」 「いいじゃない、焦って大人にならなくても。絶対に大人にはなるんだから」  みちるが呟くと、伊織がドーナッツをかざした。 「はい、みちるさん。あーんして」 「え?」 「あーん。だってこれ、中にクリームが入っているから、うまく半分にできない」 「いいわよ、伊織くんが全部食べて」  ダメ、と言われてずずいとドーナッツを口元に押し付けられそうになる。 「食べないと、ほっぺにキスしちゃうからね」  それはまずいと思って口を開けると、すっとドーナッツが遠ざかった。からかわれたと知って、恥ずかしさのあまり一瞬で顔が熱を持つ。すると伊織は「かーわいい」とニコニコ笑った。 「大人をからかうもんじゃない……」  伊織のもう一方の手が伸びてきて、みちるの後頭部に触れる。逃げないようにされたあと、今度はちゃんとドーナッツがみちるの口に運ばれた。 「ごめんごめん。みちるさんが可愛くて、つい」  釈然としない気持ちのままドーナッツを齧る。伊織は後頭部に触れていた手でみちるの頭を撫でてきた。 「間接キスだね」 「ちょっ……!」  さすがに恥ずかしさが限界に達し、彼からドーナッツを奪おうとした。しかしすかさず伊織は口に入れてしまい、満足そうにしている。 (なんなの、この子――!)  みちるは顔が熱くなるのを感じる。「大人の余裕」と頭の中で念仏のように唱えてみたのだが、ちっとも余裕を持てそうにない。  それに相反して、伊織は余裕しゃくしゃくで口元を拭いた。 「嫌だった? 俺たちの間じゃ、これくらい普通だけど」 「悪うございました。もう若くないもんで」 「俺はみちるさん、すっごいキレイだと思う。でも、拗ねちゃうってことは、お年頃ってやつ?」 「アラサーってやつ」 「そうは見えないよ。キレイすぎてびっくりしたもん」  髪の毛も真っ黒で好き。そう言って、みちるの髪の毛を括っていたシュシュをするりと外した。 「下ろしている方がいいな。キレイな髪の毛」  まずいぞ、とみちるの脳内が警鐘を鳴らす。ずっとペースを崩されっぱなしの上、下手すると呑まれそうになる。 「ありがとう。ところで、ペットのお勉強は?」  営業スマイルでそもそもの目的を伝えると、伊織は忘れていたと言わんばかりに手を叩いて、鞄の中からファイルを取り出した。  それは初心者向けのペットについて書かれたサイトを、プリントアウトしたものだ。  なんとも律儀に、マーカーで線まで引いてある。補足まできれいな字で記入してあってみちるは驚いた。てっきり今風のチャラチャラした学生かと思ったことを、ものすごく反省した。 「ごめん、こんなに調べてくれていたのに……私、明日来てねって言われたのすっぽかして」  それに伊織は、意味深にほほ笑んだ。
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