第15話

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第15話

「みちるさんは、まだこっち見ていないよね?」  伊織に引っ張られて向かった先は、いくつもの水槽が並ぶ魚のコーナーだ。 「わあ……これ、金魚?」 「キレイでしょ? 魚は人気なんだよ」  値段も思った以上に安くて、みちるはへえと感嘆の声を上げた。 「この辺りも人気、こっちの子は中級者向け。この子たちは、上級者かなあ……管理も難しい」  身体を左右に振りながら動く金魚に、みちるは思わずほほ笑む。その愛らしい容姿に一気に癒された。 「この子も一見飼いやすそうだけど、水槽にぶつかって怪我しちゃう子もいるから、実は中級者向け」  出目金を見ていると、伊織がとなりで丁寧に説明をしてくれる。さらに奥には熱帯魚もいて、色とりどりの魚たちに見入っていた。 「メキシコでは、こんな色の魚が普通に泳いでいるんだって。すごいよね、信じられない」  黄色やオレンジ色の小さな魚を見つめながら相槌を打つ。さらに、メダカやベタ、水草もチェックした。  コポコポとあちこちから聞こえてくる水の流れる音に、気持ちが穏やかになるような心地がする。 「みちるさん、小動物よりも魚がいいんじゃない?」  伊織が横から覗き込んできているのに気がつかないほど、みちるは水槽で泳ぐ小さな生命たちに心を奪われていたようだ。 「そうかも……水の音がすごく心地いいし、泳いでいる姿が思っていた以上に可愛い」  水槽からいったん目を離して伊織を見ると、彼の手がみちるの頬に伸びてきていた。そのまま顔が近づいてくる。 「すごく楽しそうにしている。ショーウィンドウ見ていた時は真剣だったけど、いまはリラックスした顔しているね」  そのまま耳たぶに触れられて、みちるの肩がびくりと震えた。伊織はにこっとほほ笑むと、みちるの髪の毛をひとすくい撫でてから水槽に視線を移す。 「不思議だよね。酸素がなくちゃ生きられないのは一緒なのに、水の中で生きられるなんて……こんな風に泳げたら、気持ちいいだろうね」  優しく金魚たちを見つめる伊織の視線に、みちるは切なさと安心感を覚える。伊織がおすすめするのならば、魚でもいいかもしれない。 「伊織くん、私、魚飼ってみようかな……」 「良いと思うよ。みちるさんならきっと、上手に育てられると思う」 「そう?」 「だってみちるさん、俺の扱いかたもすぐ覚えたから」  伊織がちょこんと頭を出してくる。それにみちるはやれやれと思いつつ、柔らかい心地の髪の毛を撫でた。 「飼いやすい種類があるから、また資料作ってきてあげる」 「悪いよ、そんなにしてもらっちゃったら」  さすがにそこまでしてもらうわけには、と思ったみちるの指先を、伊織が容赦なく齧った。 「痛っ……」 「俺はもう少しみちるさんと話したい。それに、初めてならいろいろ知ってから飼うほうが楽だよ」 「まあ、そうね」 「じゃあ決まり。今度いつ会える?」  甘えたような瞳で見つめられると、視線を外せなくなってしまう。すぐにスケジュール帳を取り出し、会社が早く終わる日にまたここで会うことにした。  帰り際、伊織がみちるの手をぎゅっと握りしめる。みちるは思い切り戸惑った。 「みちるさん、今日のお礼。まだお預けされているんだけど」 「え、あ……ごめん。撫でるのよね」  忘れていたなんてひどい、と伊織が口を尖らせる。ごめんごめんと言いながら頭を撫でると、突然強い力で抱きしめられた。 「ちょ――」 「ペットはちゃんとご褒美与えないと、拗ねちゃうからね?」  耳元に、伊織の吐息がかかる。  唇が髪の毛にほんの少し触れた。  慌てるよりも先に、伊織がパッとみちるを解放する。 「わかった、みちるさん?」 「え、あ、う……うん……」 「じゃあまた、水曜日に」  ひらひらと手を振って、伊織は去っていく。彼の唇が触れたところが恐ろしい熱を持ってみちるを襲った。 「これは、深入りしてはダメな気がする……」  みちるはしてやられた感全開になりながら、ゆっくり帰路へ就いた。
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