第22話

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第22話

「伊織くん……!」  離れて、と言おうとしたけれども、意外にも強い力に圧倒された。首筋に近寄ってくる伊織の気配に固まることしかできない。 「みちるさん。このパジャマ、借りちゃっていいの?」 「え?」 「だって、彼氏のために用意していたものだよね? 新品なの、おろしてくれたんでしょ?」  お腹に巻かれた伊織の腕の温もりに、急に寂しさが爆発しそうになった。背中全部が、まるで敏感なものにでも変わったかのように、伊織の体温を感じている。  寂しさと切なさで、胸がはちきれそうだ。平常心を装う代わりに、声がかすかに震えた。 「いいのよ。だって連絡来ないもの」  泣くもんか。  みちるは下唇を噛みしめる。  いつ帰ってきてもいいように用意したパジャマに、大きなベッド。駅近の広いマンションに、二人分の食器。  直登がここに来たのはほんの数回。そして、泊まったのはたった一回。  それでも、みちるは十年という月日を信じている。そこで二人の間に通ったものを、今も切に信じて望んでいる。  ここまで待ったのだから、結婚してほしい。  その一言を喉の奥に詰まらせたままだ。それは自分の単なるエゴで押し付けでしかないから、肝心なことが直登に言えない。  直登のためと言いながら、自分が結婚して落ち着きたいという願望の表れでしかないということをみちる自身が一番理解していた。 「泣いていいよみちるさん、今夜は俺のこと彼氏だと思っていいよ」 「なに言って……」  そこまで強がったのに、言葉が続かなかった。無視されているメール、かかってこない電話。素肌が触れ合ったのは、一体いつだっただろうか。  直登に執着しているのか、十年に執着しているのか。  それとも、今さら新しい恋に踏み出す勇気が無いからなのか、結婚に焦っているのか。  そのどれもが当てはまっていて、みちるの心がざわついた。  大人の余裕と言える余裕のひとかけらも、今は持てなかった。 「ずっと、我慢してきたんじゃないの?」  気がつけば、目から涙が押し寄せてきていた。  ここ数年、仕事でどんなにつらくても泣いたことなんてなかったのに、どんなに直登から連絡が来なくても我慢できたのに、伊織が現れて、みちるの感情の防波堤が崩れた。 「みちるさん、俺が今夜は一緒だよ。彼氏だと思えなかったら、ペットでもいい。俺は今なら、みちるさんに必要なものになってあげられる気がする」  嗚咽が漏れそうになって、みちるは慌てて口元を手で塞いだ。その手をはぎ取られ、伊織の指先がみちるの目元を優しく撫でて涙をすくう。 「おいで、みちるさん」  伊織が一瞬離れて、声をかけてきた。みちるはずいぶん躊躇ったあとに、伊織のほうへ身体の向きを変える。 「泣いていいよ、いっぱい泣いていい」  伊織が優しくみちるを包んだ。意外としっかりした胸板を感じながら、伊織の鼓動を聞くと涙が溢れ出してくる。  おろしたてのパジャマをぎゅっと掴みながら、本来ならそれを着て隣で寝てくれるはずだった人のことを思いながら、みちるはぐずぐず泣いた。 「みちるさん、俺がずっと側にいてあげる」  伊織の温かい手に頭を撫でてもらっているうちに涙が枯れ、心が満たされていく。 「ねぇ。俺を飼って、みちるさん。ずっと、あなたに忠実な男でいるから」  そんなことができるなら、伊織みたいにかわいい子が懐いてずっといてくれるなら、それもいいと思ってしまってくすりと笑う。 「金魚じゃなくて、俺を選んでよ。俺ならみちるさんのこと、ペット以上に満たしてあげられる」  寂しい心に、ピタッとはまる言葉をくれる。苦しい時に側に居てくれる。伊織は今、みちるのすべてを満たしてくれていた。 「いいよ。飼ってあげる。一緒にいて、伊織くん」  みちるはふわふわとした心地になりながら、伊織に撫でられてそのまま夢の中へ落っこちた。
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