第23話

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第23話

 *  コーヒーとなにかが焼ける甘い匂いで目が覚めた。  目をこするとずいぶんと重たいし、視界がモヤモヤする。そして、昨晩大人げなく泣いたことを思い出した。  泣いたことを忘れるほど熟睡していたらしい。ベッドから起き上がって鏡を見ると、少し腫れてはいるが今から冷やせば問題ないだろう目元が見える。  気持ちよく眠れた気がする。久しぶりに、ゆっくりと心の底まで満たされるような熟睡だった。 「あれ……?」  どうしてコーヒーと卵の匂いがするのだろうと、鏡の前で伸びをしてから、首をかしげる。 「まさか……!?」  直登ではないことだけは、はっきりとわかっていた。直登は料理をしない。  大慌てでキッチンへ行くと、そこにはすでに着替え終わった伊織が、フライパンを振るっていた。 「伊織くん……!?」 「みちるさん!」  みちるを見ると、伊織はパッと顔を輝かせた。朝から可愛らしい笑顔を真正面から見てしまい、みちるは自分の目がつぶれるのではないかと心配になる。 「ごめん、勝手にキッチン使っちゃった……朝ご飯、食べられる?」  駆け寄ってきてみちるを抱きしめてから、伊織は困ったような顔をした。しどろもどろになりながらテーブルの上を見ると、ふわふわのホットケーキが見える。その横には、湯気を立てているコーヒー。 「伊織くんが作ってくれたの?」 「うん。お礼がしたくって」 「お礼だなんて……」  みちるは完璧すぎる朝食に感動した。 「ありがとう、伊織くん」 「ううん。昨日はみちるさんの可愛い泣き顔と寝顔見れたから……それに、俺のこと信用してくれたの、嬉しかった」  言われてみちるは、一瞬で耳まで熱くなる。 「信用っていうか、あれは流れで……!」 「信用してくれたから、俺の胸で泣けたんでしょ? みちるさんは、人に壁を作るでしょ? だから、泣いてくれて嬉しかったんだ」  顔洗ってくる、とみちるはバスルームへ逃げ込んだ。その後ろ姿を見ながら、伊織が微笑んでいることには気が付かなかった。 「可愛いなあ、みちるさん。食べちゃいたいくらい、可愛い」  ニコニコと笑いながら、伊織は出来上がった朝食にメープルシロップを用意して、みちるが来るのを待っていた。  しばらくしてやっとクールダウンしたみちるは、気まずそうな顔をして着席する。 「昨日はお恥ずかしいところをお見せして……」 「いいのいいの、気にしないで。俺は満足だから。冷める前に食べよう。誰かと一緒に朝食って、美味しいよね」  伊織の言葉にみちるは眉根を寄せてしまった。もちろんムッとしたからではなく、本当にそうだと感じてまたもや涙が出そうになったからだ。  一度緩んだ涙腺は、なかなか締まりが悪いようだ。  みちるは泣かないように歯を食いしばって深呼吸をする。 「そうだね。伊織くんと一緒だと、楽しい」 「俺も、みちるさんと一緒だと楽しいよ」  二人で顔を見合わせて、いただきますと手を合わせる。ホクホクのホットケーキは、ほんのり甘くて体中に染み渡っていくような味だった。 (ああ、私、今幸せ感じてる……)  彼氏から連絡が来なくても、仕事が忙しくても。  十年という歳月にしがみついた醜い自分だったとしても。  それでも、目の前の青年がくれる優しさに、みちるは自分の心が満たされていることを感じていた。
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