第24話

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第24話

「みちるさん、今日はお店に来れそう?」  伊織を見送っていたみちるは、すぐにスケジュールを確認した。今日は打ち合わせが夕方に入っているので遅くなりそうだ。 「今日は難しいかなあ。金曜だったら行けるけど」 「じゃあ、金曜日に待ってる」 「まだなにを飼うか決められてないけど」 「相談しにきてよ。みちるさんの顔見たいし」  手を握られながらうるうるとした瞳で見つめられると、胸の奥に痛みを感じた。  これ以上、伊織と関わってはいけないような気がする。深入りすれば、切り捨てごめんが許される他人の枠から、心地よい知人へ関係が変化してしまう。  そうなったら、みちるの罪悪感も苦しさも、今まで以上になってしまいかねない。  彼氏が相手をしてくれないという寂しさを浮き彫りにすることは、耐えがたい苦痛を伴うと感じていた。 「嫌?」 「嫌じゃない。けど、あんまり行っても迷惑だから」 「迷惑じゃないよ。むしろ来てほしいから約束ね」  小指を出されてしまい戸惑った。 「そんなに、彼氏のことが後ろめたい?」  図星を突かれて、一気にみちるの頭が冴えわたる。 「それは……」 「大丈夫だよ。後ろめたいこと、みちるさんはなにもしていないでしょ?」  されたとしても。付け加えられた一言に顔をあげると、確信的な伊織の瞳と目があった。 「ぜんぶ俺がしたんだよ、みちるさんは悪くない」  唇に伊織の指が触れてきて、息をするのを忘れた。  あのキスは幻で、もしかすると夢だと思いかけていたのに。忘れてしまいたかった出来事なのに、現実だと伊織は行動でわからせてくる。 「未遂だよ。だって、あんなのは大人のキスのカウントに入らないでしょ?」  あんなのと言うのか、この青年は。  それでも立派に唇が触れたのに。  『あんなの』と言われたキスに悩まされたことがバカらしくなって、ふうとため息を吐いた。 「そうね、確かに。触れただけだもんね」 「そうそう。もっとすごいのしてたら、大人はアウトかもだけど。触れただけだし、小さい子だってそれくらいするよね」  明らかに煽られている気になって、みちるは口を尖らせた。 「俺はそれでも嬉しかったけど……みちるさんに触れられたから」  グイッと手を掴まれて、小指が結ばれる。 「金曜に会う約束ね。嘘ついたら……キスしちゃおうかな。すごいやつ」 「なっ……ダメに決まってるでしょ!」 「指切った! 約束だよ、みちるさん」 「伊織くん!」 「俺にキスされたかったら破ってもいいよ」  にこりと邪鬼のない笑みで言われて、みちるは完敗だと腕を組んだ。 「ちゃんと行くから」 「会えるの楽しみにしているね」  伊織が手を振って、部屋の扉から眩しい外へ出ていく。パタンと扉が閉められてから、みちるはそのまま壁に背を預けた。  昨晩、弱っていたとはいえあんなきれいな青年にしがみついて寝た事を思い出すと、それだけで全身から火が出そうだ。おまけに、ドキドキがおさまらない。 「これじゃ……でも、どうしたら……」  ずぶずぶと泥沼にはまっていく感覚がしていた。冷静になろうと携帯電話を見つめる。相変わらず新着メッセージはないと落胆しかけたが、よく見ると直登から連絡が来ていた。 「うそ、直登から連絡だ!」 〈一週間後、日本に帰れるよ。一瞬だけだけど。久々に会えるかな?〉  みちるは文面をを見て嬉しくなると同時に、胸にしこりを感じた。今しがた去って行った伊織の残像が瞼の裏でちらつく。 「連絡、嬉しいはずなのに……」  ぽつりと呟く声は、誰にも聞かれないまま固いフローリングの上に落ちて行った。
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