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第25話
伊織と約束をした金曜日。
会社を出ようとしている時に、「お疲れ様です!」と真由子に元気よく声をかけられた。
「お疲れ様、先に上がらせてもらうね」
「先輩、最近いいことあったんですか?」
「なんで?」
真由子は一歩近寄ってくると、みちるの側へ身体を寄せた。
「最近ずっと嬉しそうですし、早く帰る日ちょっと増えたし。もしかして、彼氏さん、帰って来るんですか!?」
「来週だけど、ちょっとだけ居られるらしいの」
「良かったですね! 全然会えないって言ってましたもんね」
みちるは苦笑いをこらえた。
会えないのは今に始まったことではないので慣れっこだが、それに慣れてしまっている自分にも気づかされている。
「○○駅近くに新しくできた創作和食のレストラン、評判いいんですよ。クーポンもらったんで、来週渡しますね。ぜひ彼氏さんと行ってきてください」
「ありがとう」
みちるは手を振って真由子と別れる。ワクワクしている気持ちと同時に後ろめたい気持ちもあって、みちるの心はバランスを崩しそうになる。
伊織と会う約束をしたので彼に会いに行くが、必要以上に関わるのは止めようと決めた。
そうでなければ、直登に示しがつかない。
「金魚飼っちゃえば、もう伊織くんと会うことないんだし……」
しかし、伊織といるのは楽しい。
五つも年下の男の子に振り回されているだけだが、伊織には振り回されてもいいと思わせてしまうような可愛さがあった。
電車に乗り込んで、口元を隠していたマフラーを外す。
あの一瞬だけ触れ合った唇の感触を覚えている。それは、とんでもない過ちのように感じられる反面、本当に犬に鼻先をくっつけられただけとも言える事故感もあった。
直登はあれから数回連絡のやりとりがあり、一時帰国のために会社がホテルを用意してくれたということだ。なので、みちるの家に今回も直登が来ることはない。
(虚しいというよりも、ほっとしている自分がいる……)
伊織と過ごしてしまったあの家に、直登が来ることをどことなく躊躇っていた。
それでもやっぱり、ずっと会えなかった恋人に会えるのは嬉しい。一緒に食事をする約束の日は、少しくらいお酒も飲もうと決め込んでいた。
最寄り駅に到着すると、寒空の下に投げ出される。モールへ足を運び、ペットエリアへ向かった。
数回足を運んだだけだが、妙になじんでしまった感じがする。
見慣れた可愛い犬や猫の写真が印刷されたフードの横を通り抜け、トリミングされて鳴く犬を見ながら、まっすぐに進む。
小動物の部屋に人影がなかったので、魚たちがいるエリアに足を運び入れると急に呼吸が楽になった。
耳に心地よい水音、静かなのに生命力が溢れかえっている魚たち。
揺れる水草に、美しいディスプレイ。思わず見入っていると、優しく名前を呼ばれた。
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