第26話

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第26話

「いらっしゃい、みちるさん」  振り返れば、茶色のふわふわな髪の毛に、きりりとしたアーモンドアイの伊織が立っていた。 「俺に会いに来たんじゃないの? それとも、魚を見に来たの?」 「ごめんごめん、ついキレイで」  みちるの手を伊織が掴む。その温かさにほっとするる自分がいた。 「妬けるなあ。みちるさんは、俺だけ見てくれたらいいのに」  ちゅ、と手の甲に伊織の唇が触れて、みちるはぞくっとした。唇の隙間から出された歯の先が、軽く触れる。 「伊織くん!」 「これでも我慢したんだけど。犬だって飼い主がきたら全身で喜ぶでしょ」  かぷっと指先を齧られて、みちるは手を引っこめようとする。しかし逆に引っ張られてしまった。 「伊織くんは犬じゃないし、私は飼い主でもありません」 「俺を飼ってくれるって、この間言ったのに」  ベッドの上で、と耳元で囁くように言われて、みちるは発火しそうになる。狼狽える姿に満足したのか、伊織はにっこり笑うとみちるの手を解放する。 「あはは、みちるさんやっぱり可愛い。で、どんな子飼うの?」  急に話をそらされて、からかわれたんだとムッとした。それにかまわず、伊織はこっちこっちと手招きする。 「この子たちなんてどう、可愛いでしょ?」  案内された水槽の前で、揺れるひれを気持ちよさそうにたゆたわせている魚の姿に、みちるは一瞬で虜になった。 「キレイ……」 「うん。みちるさん気に入るんじゃないかなって思って。この、白と赤の子なんて、めちゃくちゃキレイでしょ?」  みちるは視線を動かさないまま、うんうんとうなずく。今すぐにでも家に連れて帰りたいと思うのだが、いかんせん準備がなにもできていない。 「この子がいいなあ」 「俺じゃなくて?」  咎めるように言われたため、みちるは隣で一緒に水槽を覗き込んでいる美しい青年を見た。 「そうね。伊織くんもキレイだしかわいいし、飼えるなら飼いたいかも」  伊織の鼻先にちょんと触れると、彼は嬉しそうに笑った。 「いいよ、俺のこと持って帰っても」 「そのうちね」  ひとまず、水槽を買おうかなとみちるは金魚に視線を戻す。伊織はみちるの髪の毛をひとすくい持ち上げると、案内するよとほほ笑んだ。 「どんなのがいい? スクエア型もあるし、陶器もあるし、レトロなタイプもあるよ」  たくさんある水槽に目移りしながら、家の中で置けるスペースとインテリアとの兼ね合いを考える。 「みちるさんだったら、こういうシンプルなものがいいんじゃない? お部屋も、ごちゃごちゃしていなかったし」  伊織が持ってきたのは、テーブルボウルのようにさえ見える、オシャレなガラスの入れ物だった。シンプルでかつ、湾曲した側面が美しい。 「すごく素敵。あの子に似合うかな?」 「大丈夫だよ。必要なものはまだあるけれど、ひとまずこれだけにしておく?」 「うん、そうするわ」 「家まで運ぶよ。地味に重いし危ないから」  断ろうとしたところで、伊織の指先がみちるの唇に触れた。 「あと二十分で上がりだから、待ってて。水槽の準備の仕方を教えるから」  伊織の有無を言わせない言動に、思わずうなずいていた。それに、重いのならば持ってくれたほうが助かる。 「夕飯も俺が作ってあげる。一緒に食べたいんだけど、ダメ?」  金魚鉢の購入だけ済ませると、品物を伊織に預けておく。  一緒に食べたいと言われて、嫌だと言い切れなかった自分の弱さを呪いつつ、誰かと一緒に食べるご飯の幸せに心が躍った。
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