第29話

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第29話

 伊織は金魚鉢も荷物もひょいと持ち上げてしまった。買い物袋くらいは持つと言ったのに一歩も引かなかったので、任せることにした。  細身の割には存外、筋肉質なようだ。 「十年も好きでいてくれたら、俺だったらすごく嬉しいけどな」 「うーん。もうね、好きっていうか、なんていうか。マンネリ通り越して、いるのが当たり前になりつつあるというか……」 「信頼し合えているってことでしょう?」 「きれいに言えばね」  帰り道そんな話をしながら、そういえば伊織には好きな人や彼女がいないのかを聞こうとして止めた。  彼女がいると言われたら、地味に自分が傷つく上に彼女に申し訳ない。 「直登がこんなに海外出張が多い仕事に就くとは思わなかったな。付き合った当初、彼はラグビー部で運動ばっかりだったし」  好きだと言われた時の嬉しさを、みちるは淡い思い出とともに美化して、胸の内にしまい続けている。  文化祭の最後に呼び出されて、こっそり告白されたのだ。  ラグビーでは負けなしのいかつい男子が、耳まで真っ赤にして付き合ってほしいと頭を下げた。みちるは驚いたけれど好感のほうが勝った。 「懐かしいなあ。よくこうやって二人で並んで歩いて帰っていたのに。今じゃ並んで歩くどころか、会うことさえままならないんだもんね」 「寂しい、みちるさん?」  覗き込まれて、みちるは肩をすくめた。 「寂しいわよ。じゃなきゃ、ペット飼おうなんて思わないんでしょ?」  そうそう、と伊織はくすくす笑う。そうしているうちにマンションについて、部屋へ入る。買ったばかりの金魚鉢をみちるが開けて、伊織は夕飯の準備をした。 「みちるさん、お鍋と電磁プレート借りるね」 「キッチンのもの好きに使って。手伝うことあったら言ってね」 「みちるさんは、金魚鉢見ていてよ」  あとで呼ぶよと言われて、みちるは金魚鉢を開けて取り出した。  そのままでもじゅうぶん可愛い形のため、インテリアとして飾っておくのもいい。ご機嫌になりながら、部屋のちょうどいい場所に置いてみた。 「わ、ピッタリ!」  サイズ感もちょうど良く、さらには丸いフォルムが部屋にすんなり溶け込む。みちるは写真を撮りながら満足感に満たされた。  眺めていると伊織に呼ばれ、机の準備を手伝いあっという間に豆乳鍋が出来上がっていく。 「お料理上手なのね……余った野菜でおひたし作るなんて、私じゃ考えつかない」 「親が忙しかったから、料理のリメイク術もけっこう鍛えているよ。豆乳スープは、カルボナーラや担々麺に作り替えたりもできる」 「なにそれ、魔法!?」  伊織はくすくす笑った。出来上がったお鍋の蓋を開けて、みちるに中身をよそって渡す。  あつあつに湯気を立てているスープは、豆苗の緑色が映えて美しかった。 「食べよう、みちるさん」 「ありがとう伊織くん」  グラスに入れたお茶で乾杯をし、美味しすぎる豆乳鍋に舌つづみを打ったのだった。
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