第30話

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第30話

 食後に伊織は、金魚を飼うための水槽の水の準備を教えてくれた。 「ミネラルウォーターじゃなくて、水道水でいいんだよ。こうして置いておけば、カルキが抜けていくから」 「あやうくミネラルウォーターにするところだったわ」 「だろうと思った」  伊織はくすくす笑う。金魚鉢いっぱいに水を入れて、レイアウトを元の位置に戻す。水が入ると水槽が生き生きしたように感じられて、胸が高鳴った。 「今は冬で寒いから、三日くらいはこのままがいいかな。カルキ抜きのテスターとかもあるけど、そこまでしなくてもいいと俺は思う」 「でも、せっかくうちに来てくれるんだから……私も初心者だし、しっかりしたほうがいい気がする」 「じゃあ、内緒でお店の余っているテスター持ってきてあげるよ」 「いいの?」 「うん。内緒ね」  みちるは嬉しくなって、水だけが入った水槽を眺めた。  ここに、今日選んだ子が来て泳ぐ姿が見られるかと思うとドキドキする。 「寒いし、この場所だと日も当たらないから……カルキが抜ける四日後くらいに持ってくるよ。お店に取りに来る?」  スケジュールを見た。四日後は直登とちょうど会う約束の日だ。 「その日はちょっと……」 「彼氏と会う日?」 「うん」 「ポストに入れておいてあげる」  それは悪いと言おうとしたが、伊織の笑顔に根負けした。 「なにからなにまでありがとう」 「いいよ。俺、下心あるから」  驚いて伊織を見ると、不敵な笑みを見せられた。 「下心って……?」 「みちるさんに飼ってもらうんだ」  みちるはあきれてため息を漏らした。一瞬緊張しかけたのだが、冗談だと思って受け流す。 「みちるさん、冗談だと思ったでしょ?」 「伊織くんは人間なんだし、飼うもなにも」 「俺、アパート引っ越さなくっちゃなんだよね、三月までに」  言いかけたみちるの言葉を塞ぐように、伊織がまじめな口調で告げる。 「耐震工事をするから全員退去してくれって言われたんだ。それで、次の家がまだ決まっていない」 「ちょっと待って。もう決めないと、引っ越し業者もこの時期は混むし……というか、三月ってもうすぐよ?」 「みちるさんが俺を飼ってくれたらいいなーって。家賃も半分出すし、料理は俺が全部作る。掃除も洗濯も得意だよ」  それにね、とみちるの頬に伊織が手を添えた。覗き込んでくる瞳に、みちるは困惑する。 「一緒に住めば、みちるさんが寂しい思いしなくて済むよ。俺ができることはなんでもしてあげる」  一瞬なんて魅力的なんだろうと思ってしまいかけた自分がいて、みちるははっとして我に返った。  伊織の顔が近づいてきたところで、伊織と距離を取るように手を伸ばして突っぱねた。 「寂しいの慣れてるし、お料理もなんとかなっているわ。伊織くんは、さくっと次のアパート探したほうがいいわよ」  ごねるかと思ったのだが、伊織はあっさり引き下がった。 「わかった。いい物件探すね」  伊織はみちるの髪の毛をひと房握り、そしてそこにキスをしてにこりとほほ笑む。  断って当然だし、一緒に住むなんてありえないことなのに、なぜか自分が悪いことをしているような感覚に、胸がちくりと痛んだ。
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