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第31話
「みちるさん、金魚飼うのに必要なものがもう少しあるよ。水草とか、下に敷く砂利とかどうする?」
そのあたりの知識がうろ覚えだったので、みちるは気まずくて視線を逸らした。
「また一緒に決めよう。お店に寄ってくれてもいいし、呼べば来るよ」
「考えてみるわ。ひとまずはこれで大丈夫なのよね?」
一瞬不安になって金魚鉢を見たのだが、伊織は大丈夫だよと伝えた。
「あとはレイアウトの問題。水草も本物とフェイクとで種類があるしどうするかはみちるさん次第だよ」
みちるは、小さいけれどしっかりと存在感の際立つ金魚鉢を見つめた。
「考えてみる……まだまだ、お迎えできるレベルになさそうだわ」
「そんなことないよ、みちるさん飲み込み早いし。肝心なのは最初だから」
色々と調べるよと伊織も言ってくれて心強い。帰っていく伊織を見送りながら、みちるは四日後以降が楽しみになってきた。
直登と会えるのはもちろん、金魚がこの中で泳いでいる姿を見られると思うと、愛しさが込み上げてくる。
飼える自信はまだまだ無いに等しいが、エキスパートが近くにいると思うと不安が和らいだ。
「それにしても、下心があるとか飼われとか。なに言ってるんだか最近の若い子は……」
やれやれと思いつつも、髪の毛にキスしてくる伊織の姿を思い出すと、胸が締め付けられる。
直登には無い魅力が伊織にある。底なし沼に引っ張られるような心地に、きちんとしなくてはとみちるは頬をたたいた。
直登からの連絡は今は途絶えている。会う日の時間と場所はもう決まっているので、無駄な連絡はお互いにしない。
いつからかこんなにドライになっただろう。みちるは元々さっぱりした性格ではない。そう見えるだけ、そう見せているだけだ。
「ほんとは、私だって甘えたい」
できることならもっと一緒に居たいし、たくさん話がしたい。街で見かけるような仲の良い恋人同士のようになれたらなと思う。
しかし、仕事や環境、そして年齢がそれらを疎外していた。
あの頃のみちるは、大人にならなきゃと背伸びを始めたのだ。
直登が仕事を始めて会えるのが少なくなった時、一歩先に大人になった彼に追いつこうとした。子どものまま、わがままではいられなかった。
なにも生き物がいない水槽を見て、みちるは眉根を寄せた。
「寂しかったんだな、私はずっと」
本心を隠してしまう癖がついたのもその頃からだろう。直登が困るとわかっていたから。
みちるだって彼を困らせたくない。だからこそ、大人になるという選択をしたのに。
その結果が、今だ。
使われていない部屋、大きすぎるダブルベッド、一人暮らしにしては広すぎるマンションの一室。
着替えもパジャマの予備も置いてあり、ただそれらが置いてあるだけの部屋。
虚無感が押し寄せてきて、みちるは口の端に短く笑みを乗せた。
「……直登になにを期待しているんだろう、私」
結婚なのか、情なのか。
縮れてよれていたとしても、依然と結ばれたままの直登との縁に、ほっとする一方で伊織がよぎって心が騒めく。
「ほんと、ばかね私」
泊めてあげればよかった。こんな寒い夜に大学生を帰らせるなんて、なんて薄情なんだと自分を罵り、伊織からメッセージが来ているのを確認して笑った。
写真は、金魚鉢にしがみついてじっと眺めているみちるの姿だ。『可愛い』と一言添えられている。
「ちょっと元気出た。お風呂入ろう」
みちるは気を取り直して、今日の疲れを癒した。
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