第35話

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第35話

「みちる、大丈夫か? あー……ダメそうな顔だな。もう帰ろう。送っていくよ」 「ごめんね、ちょっと仕事疲れの上に、お酒飲んじゃったから」 「いつもだけど、仕事頑張り過ぎなんじゃないのか?」  直登と会いたかったから。  その一言が言えず、「そんなことないよ」と返すのでいっぱいだった。  帰り道も直登は心配そうにして部屋まで送ると言ってくれたのだが、みちるはその申し出を断った。  今は、一緒に居たくない。  先ほど自分が見たことを追及してしまいそうになる。そして、もしそうなったら、責め立ててしまう。  たかがメールの文字に、二人で十年築き上げたものを壊されるなんて最悪にしか思えない。 (それに、魔がさしただけかもしれないもの……)  今、みちるに対して直登の気持ちが冷めていたとしても、一時の気の迷いだろう。  それを期待するには、彼女として十分頑張ってきたつもりだ。  最寄り駅に到着する手前、直登が心配そうにみちるを覗き込む。 「なあ、本当に部屋まで行かなくて大丈夫か?」 「大丈夫よ、すぐそこだし。直登だって時差ボケでつらいだろうし、ホテル帰りたいでしょ?」  直登のために、パジャマを用意してあることも、着替えがあることも、みちるは伝えていない。  それは、直登にとっての楔で重しになりかねないからでもあり、献身的な彼女像でいることが、はちぐはぐに見えるからだ。  それでも、心はいつでも直登のそばに居たつもりだ。  しかし、今日のあのメッセージは、強烈なものとして記憶されてしまった。 「でも心配だから」 「大丈夫、直登も休んで。また連絡してよ」 「だけどさ、またすぐ発つし」 「……それなら、うちに泊まっていく?」  直登はとたんに驚いた顔をした。 「いや、荷物の片付けもあるから」  ていよく濁された。このあと、あのメールの女性と会うのだと、みちるの直感が告げる。  部屋に来たがるのはみちるが浮気をしていないかチェックするため、でも泊まるのはこの後の夜の予定があるから都合がわるい。  みちるには直登の返事はそんな風に聞こえた。 「忙しいんだし、無理しないで。体調管理できていなかった私が悪いの」 「そりゃ、係長なら補佐の俺より忙しいのは仕方ないけど」 「早く寝て、明日は遅く出社する。もうつくから、またね。会えて嬉しかった」 「俺もだよ、みちる」  直登はすごく心配げに眉根を寄せて、みちるの手に触れた。 (あ……)  瞬間。みちるは彼の手になにも感じなくなったことを知った。  驚いている間もなく、直登の乗る電車が発車のベルを鳴らした。  みちるは慌てて彼を電車のほうに押しやってから直登に手を振った。直登が苦笑いしながら手を振り返してくれる。  扉が閉まって電車が去っていく。直登が扉に背を預けて携帯電話を取り出したところで、電車は走り去っていき見えなくなった。  ショックだった。繋ぎたいと思っていた手のひらが、握った瞬間に絆を感じなくなったことだった。 「なにこれ。たかだか、メールの文字くらいで……」  心を乱されてたまるもんか。  みちるは気丈に唇を引き結ぶと、ポケットに手を入れて、自分の乗る電車で自宅に向かった。  駅を抜けて改札を出ると、頬を引っぱたくような風が吹いてきた。冷たさが逆に心地よくて、頭が冴え冴えとしてくる。 「帰ろう」  家へ足を向けて、とことこと歩き出す。夜気にすべてを洗い流してもらいたくて、長い髪の毛を揺らしながら歩いた。  マンションのエントランスのオレンジ色の光が見えた時。そこに浮かび上がった黒い影に、みちるの胸が滲むように脈打った。
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