第36話

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第36話

 みちるの姿に気がついた影は、寄りかかっていた壁から背を離す。  たかたかと駆けよってくる姿に、我慢してい涙腺が緩みそうになって必死に下唇を噛みしめた。 「――伊織くん、どうして……?」 「みちるさんこんばんは。これ、お届け物」  伊織がポケットから取り出したものを受け取って、みちるは首をかしげる。 「これは?」 「テスターだよ。残留カルキのチェッカー」  そう言えば、ポストに入れておくと言っていたのを思い出した。慌てて時計を見ると、時刻は二十一時を回っている。 「まさか伊織くん、バイト終わってからずっとここで待っていた?」  伊織は肩をすくめてみせた。 「だって、ポストに入れておくって……」  抗議の言葉を発しようとしまみちるの唇に、伊織の人差し指が触れた。 「直接会って渡したかったから、待っていたの。俺が勝手にしたんだから気にしないでよ」 「来るなら言ってよ」 「だって、デートの邪魔しちゃ悪いじゃん」  みちるは口をつぐんだ。恨めし気に見上げると、伊織はふふふと柔らかくほほ笑む。 「次からは言うね。顔も見れたし、テスターも渡せたから俺帰るよ」 「もう帰っちゃうの?」  口を突いて出た言葉に、自分でも驚く。伊織の顔を見てほっとし、切なくなり、そして胸が思い切り締めつけられていた。  でもきっと、ここで引き止めるのはマズイ。わかっているけど、寂しさがこらえられない。 「デートのあと一人で帰ってきたってことは、一人でいたいんじゃないの?」  図星を突かれた。  さっきまでは一人でいたかった。強烈に頭を冴えわたらせたかったのに、伊織を見たせいで胸がジクジクと痛む。  一人になるのが怖くなってしまい、なんてひどい人間なんだと自分を呪いそうになる。  去りかけていた伊織は踵を返して戻ってくると、みちるの頬に手を添えた。 「風邪引いちゃうよみちるさん。それとも、お部屋までエスコートしてほしい?」  一瞬、みちるはためらった。しかし、伊織に今とても甘えたいという気持ちがせりあがって、迷ったあとに唇を噛む。 「……うん」 「よく言えました。じゃあどうぞ」  はい、と手を差し出されて一瞬ぽかんとする。 「きょとんってしないでよ。俺にエスコートされたいんでしょ?」 「え、あ、うん……」 「あはは、可愛いなみちるさん」  伊織の手を恐る恐る掴むと、グイと引き寄せられて背中に手が回ってくる。手が繋がれたのはその一瞬だけだったのに、みちるの心臓は鳴りやまなくなる。 「みちるさん、お部屋上がってもいい? テスターのやりかた教えてあげる」 「ありがとう」 「可愛い、みちるさん……テスターのやりかた教えたら、デートの邪魔しないで、みちるさんの事待っていたご褒美くれる?」  上から覗き込まれる視線は、大学生とは思えないほどに色っぽい。それは、煽情的ともいえる眼差しで、みちるはなにも言えなくなってしまった。 「なにがいいの、ご褒美?」 「みちるさんがいい」 「ばかなこと言わないで」  いつもの調子に呑まれつつ、ほっとしてしまった自分が悔やまれた。  伊織と会ってから、直登のことも気持ちの悪さも、あのメールに対する怒りもおさまっている。  敵わないな、とみちるは一人胸中で苦笑いした。 「おとなしく飼い主のこと待てたら、ご主人様はそれに応えるべきでしょ?」 「こんな大きなペットお迎えした覚えないわよ」  みちるが困ると、伊織はふふふと笑った。  部屋に入ると、玄関で伊織に引っ張られた。気がつけば、みちるは壁に押し付けられていて、伊織が上から覗き込んでいた。
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