第53話

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第53話

 気持ちのいい夢を見ていた気がする。みちるがアラームで目を覚ますと、隣にいるはずの伊織の姿は無かった。  起き上がってリビングへ行くと、コーヒーのいい香りが漂っている。しかしやはり伊織の姿がない。 「あれ、どうしたのかな……?」  机に近寄ってみると、朝ごはんとメモが置かれていた。 〈サークルの用事があったから、先に行くね。朝ごはんしっかり食べてね〉 「……こんな早朝に。大学生も、大変ね」  伸びをすると、背中の骨がゴキゴキ鳴る。朝食を食べるついでにテレビをつけて、久しぶりの一人の朝を過ごした。  なんだか、不思議な気持ちになる。いつも一人が当たり前だったのに、今や机の向かいに人が居ないことをおかしなことだと心が認識してしまっている。 「ほんと、どっちが飼い主なんだか……」  ニュースと天気をチェックし、ついでに占いまでばっちりと見てラッキーカラーのハンカチをバッグに忍ばせた。  髪の毛をひとまとめにして、小ざっぱりとした服装で出社の準備をする。なんだかまるで今まで夢を見ていたのではないかと思ってしまった。  ちょっと怖くなったのだが、玄関で靴を取り出した時に、伊織の靴を見つけて安心した。扉を閉めようとしていると、伊織から着信があった。 「もしもし、伊織くん?」 『みちるさん、まだ、出社前?』 「今から出るところだけど」  なんだろうと思っていると、電話の向こうで伊織が安心して息を吐いているのが聞こえた。 『良かった! 忘れ物しちゃって……もし可能だったら、近くまで持ってきてくれると嬉しい。無理なら戻るんだけど』 「大丈夫よ。忘れ物の場所は?」  部屋の中のレポート用紙だという事で、初めて伊織の部屋に足を踏み入れて驚いた。 「伊織くん、本ばっかり」 『俺の荷物はほとんどが本だったんだよね。机の上に、ファイル置いてないかな……水色のやつ』 「これを届ければいいの?」 『ごめんね、みちるさん』  外回りのついでに行けるので、お昼でも大丈夫かを訊く。午後の提出だから間に合うとのことで一安心だ。 「あとで届けるね。大学は……ええと、どこだっけ?」 『言ってなかったっけ? △△大だよ」 「えっ!?」 『入口はいって、まっすぐ行ったところに噴水とベンチあるから。そこでお昼に待っているね』 「ちょ、伊織くん!?」 『先生が呼んでる、行かなきゃ! みちるさん、またね!』  電話が切られてしまい、みちるは目を白黒させた。 「まさか、そんな頭いいとこ通ってるなんて……」  見た目にそぐわず、とんでもない子のようだ。まだまだ伊織が隠しアイテムを持っているのではないかと思ってしまう。 (伊織くんって、ヤバい案件かもしれないわね)  レポートをバッグへ入れてローヒールをはくと、鍵を閉めて外へ出る。  まだ冬の寒さが身に染みるが、青空が広がっていて気持ちがいい。天気予報で言っていたにわか雨が嘘にしか思えないような陽気だ。 「でも、当たるのよね、天気予報って」  みちるは念には念をと思い、折り畳み傘を伊織の分も含めて二つ用意した。  行ってきますのキスがないまま出社するのは二週間ぶりだ。そして、もう少しで直登と会う日がやってくる。  どっちつかずのまま、日々が過ぎている。直登への気持ちが回復しないだろうということはわかっていても、選択肢は二つ。 「結婚するか、このまま別れるか」  果たして、自分に別れることができるのか。直登のことを見限ったとして、新たな相手が浮気をしないとは限らない。それに、気持ちが冷めないとも言えない。  この世の中に、絶対なんてないのだ。だからこそ、安全パイを選んでしまいたくなる気持ちが大きく膨らむ。  十年という年月にしがみついている自分は、歯切れの悪い大人になってしまっている。  みちるは頭を振ってから、職場へ向かった。
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