第54話

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第54話

 外回り(長め・帰宅未定)とボードに書き込んで、みちるは電車へ乗り込んだ。 「あっ、ヒールのまま来ちゃった!」  会社に置いてあるヒールは、初めてのお給料で購入したブランド物だ。  ヒールの部分が太くインソールの厚みがあるので、八センチを超えているのに歩きやすい。商談や近場の外回りにおいて、みちるはこのヒールをはくと決めている。  ディスプレイデザイナーとして見た目をきれいにしておくのは、仕事の信頼に関わると教わった。  服装はダサく見えないように、かつシンプルに。そして外回りに行く時にはこのヒールで気合いを入れる。  身長が高いみちるがはくと、男性と同じ目線になる。真由子は羨ましいとしきりに言ってくるが、みちるにとってこのヒールは自己防衛のグッズだ。  取引先は、デパートだったり、流行に敏感な企業だったりする。少しでも見た目がダサいと、それだけでNGを出してくる高圧的なパターンも経験済みだ。  なめられたくない。  仕事にはプライドを持っている。だからしっかりと自分を主張する。  ヒールはみちるに勇気を与えてくれる。  ペコペコとゴマすりするのが苦手なため、ヒールで背を高く見せることで、クライアントと同等の立場で仕事をさせてもらう、とさりげなく主張しているのだ。  スケジュールを車内で確認していると、伊織の通う大学の最寄り駅に到着した。改札を抜け、三分ほど歩いたところに大学がある。 「リアル若者が、大勢いるわね」  辺りを見れば、髪の毛を明るく染め抜いた今どきファッションの男子生徒や、学生でしか着られないような服の女子生徒が大勢歩いていた。  楽しくおしゃべりをしながら数人で歩いている集団、イヤホンをつけながら携帯電話を覗き込む若者。  色々な学生たちを見ながら、今流行や若者の様子をチェックしてしまうのは、職業病に近い。少しでも完成を研ぎ澄ませておかなくてはならない。  門前の警備員の姿を目で捉えた時、入って大丈夫かと思ったのは、もちろん自分が学生には見えないからだ。  シンプルな冬物のチェスターコートに、カジュアルなパンツスーツ。おまけに仕事用の大きなバッグを肩からかけていれば、どう見ても学生ではい。  ドキドキしたのだが、警備員は会釈をしただけでとくにみちるのことを不審者とは思わなかったようだ。 「そっか、大学って出入り自由だったっけ……昔のことで忘れちゃったよ」  みちるは冷や汗を飲み込み、校内へ足を踏み入れる。自分が通うことのできないくらいの偏差値が高い有名大学のため、ものすごく緊張していた。  クライアントの前ではそんなことないのにと、勝負靴のヒールを見てしっかりしろと自分に喝を入れる。 「忘れ物届けに来ただけだから、こんなに緊張することないじゃない」  自分に言い聞かせながら、伊織に言われたとおりまっすぐ歩いて行くと、大きな噴水が目の前に現れた。  携帯電話をポケットから取り出し『ついたよ』と連絡しようとしたところ、噴水の向こうから学生の集団が歩いてくるのが見えた。 「伊織くん――」  手を振ろうとして、みちるは思わず手をすっこめて噴水の影に隠れた。
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