第55話

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第55話

(大人っぽいからすっかり忘れていたけど……伊織くん、学生なのよね)  伊織は、みちるが見たことのない若者の顔で笑っていた。彼の周りにいる学生たちも、伊織と同様に楽しそうにしている。  伊織のいる集団は、ちょっと目を引く感じの煌びやかさがある。彼を含めて六人の男女だったが、どの子もセンスが良い。オシャレという言葉がしっくりくる。 「私が隠れることないのに……」  みちるはふうと息を吐くと、もう一度伊織の前に出ようとして再びやめた。  女の子が伊織にくっついて腕を組み、彼の頬にキスしようと近づいたのを見てしまったからだ。 「なに、あれ……」  今見たものがいったいなんだったのかわからないまま、驚きと不安で身体が固まる。  伊織に会うのが怖くなり、みちるは早足でその場から去って、入り口まで戻ってしまった。  伊織の表情までは見えなかったけれど、女の子のうっとりするような視線はまさしく恋人のそれだった。 「そういえば私、伊織くんに彼女がいるか確認してない……」  このままでは、伊織に退屈しのぎに遊ばれているだけのポジション決定だ。みちるはため息をはく。 「恋人がいるなら、私に執着しなくてもいいのに」  しかし、これでわかったことがある。彼女がいるから、みちるに手を出してこないのだ。ギリギリで引っ込めて、みちるの反応を楽しんでいるのに違いない。  ペットとして生きるために、飼い主を満足させて飽きさせないようにしている。けれど伊織は、それ以上の関係を望んでいないということだろう。 「私ばっかり舞い上がって、ばかみたい」  恋人がいるなら、さすがにキス以上は浮気だろう。若者の浮気の定義を知らないが、みちるにとってはキスでさえ浮気のラインを超えている。  好かれているとばかり思っていた。  下心があると言っていたのは覚えていたけれど、本当にペットとして飼い主の側にいるだけなのだ。  ずっと側にいると言ったのも、結局は飼い主であるみちるを満足させるためだけのリップサービスに違いない。  心がぐちゃぐちゃになりそうだ。切なくて泣きたいけれど、自分の愚かさのために流す涙は醜いとわかっている。 「今気がついて良かった。後戻りできなくなる前で」  みちるは深呼吸をすると、携帯電話をポケットから取り出す。そして、警備員が怖いから、中じゃなくて門の前で待っているねとメッセージを送った。  すぐに『待っていて!』と伊織から返事がくる。みちるはそれを少しだけ冷静になった心で見つめた。 「みちるさん!」  一回だけ聞こえないふりをして、その間に深呼吸で気持ちを整える。 「みちるさん?」  強い力で腕を掴まれた。振り返ると伊織が首をかしげながら立っている。ヒールをはいたみちるよりもさらに高い視点から『どうしたの?』といいたそうな視線が降り注いでくる。 「あ、ごめんぼうっとしちゃって――はい、これ」  バッグからレポートを取り出して、伊織に渡す。 「ありがとう! すごく助かったよ。そうだ、今夜はなに食べたい? 好きなもの作るよ」  はしゃいでいる伊織に対して、すぐに答えられず妙な間ができてしまう。掴まれた腕から逃げるように、一歩下がった。 「……みちるさん、どうしたの?」 「もう行かなくっちゃで。それに、今日は遅くなるから夕飯いらない」  じゃあね、とみちるは手を振って別れる。伊織はその場できょとんとした顔をしていた。  だいぶ離れてから一度だけ振り返ると、先ほどの仲間たちが伊織を取り囲んでいるのが見えた。  胸がぎゅっと締め付けられるような気がして、今は誰にも会いたくなかった。
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