第56話

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第56話

 職場へ戻ろうとしている最中、伊織から何度も着信があった。  みちるは電車に乗り込むのを理由に、携帯電話をサイレントにする。電車に乗ってすぐに、窓の外に雨粒が走り出した。 (そういえば、傘!)  バッグの中には、伊織の分の折り畳み傘がある。渡し忘れたことを後悔したが、学校で誰かに借りて帰ってくるだろう。 「ちょっと、頭冷やそう……」  みちるは少しだけ寄り道をした。途中立ち寄った雑貨屋でテラリウムがディスプレイされている。  買っただけになってしまっている金魚鉢を思い出した。金魚を飼うつもりだったのに、家にきたのは美しい青年だ。 「どっちが飼い主なんだか、わからないけれどね」  ささくれ立った心のまま帰社し、猛烈に仕事を片付けた。みちるのその仕事っぷりは、鬼神モードと呼ばれている。仕事が終わるころに真由子に「めっちゃ鬼神でした」と笑われた。 「先輩本当に仕事すごいです、尊敬します」 「仕事は調子いいんだけどねー」 「そういえば、金魚飼うって言ってませんでしたっけ?」 「結局まだ飼ってないの」  真由子は目を見開いた。 「今村先輩って、お仕事鬼ですけど、プライベートだとけっこうおっとりしていますよね。オンオフがあるんですか?」  みちるはうーんと首をかしげる。仕事ではゴリゴリしなくてはいけない部分もある。  実は体力仕事でもあるし、女性としてキャリアアップをしたいので、いくつもの決断を迫られる。そんな環境にいたせいもあって、仕事において優柔不断な所はない。 「言われてみれば、プライベートは優柔不断かも。彼氏にも重いって思われたら嫌で、甘えられないし」  私生活を大っぴらにするつもりはなかったのに、最近色々あったせいでつい、つるっと口が滑ってしまった。真由子は食いつくように近づいてくる。 「意外、先輩が甘えたい派だったなんて! 甘やかしタイプかと思ってました!」 「大事なところにツッコめないのを甘やかしというのなら……完全な甘やかしタイプだわ」 「それは甘やかしじゃなくて、傷つきたくないという防衛本能かと」 「だよねぇ」  みちるはいったんパソコンから離れた。伸びをしながらコーヒーを用意し、熱いそれを口に含みながら携帯電話を見る。着信履歴が六件もある。 「全部、伊織くんからだ」  さすがに良心が痛んで、すぐにかけ直す。五コールで出なかったのだが、六コールめで伊織の声が聞こえてきた。 「ごめん伊織くん。何度も電話もらっていたのに」 『みちるさん、なにかあったの?』  鋭いな、とみちるは肩をすくめた。 「急いでいただけなの。そっけなくしてごめんね」 『俺に嘘つくのよくないからね、みちるさん。どうなっても知らないよ』 「ちょっと待ってどういう事!?」  まさか、出て行ってしまうなんてことが起こるだろうか。伊織が居なくなることを考えると、みちるはゾッとした。  彼に今出て行かれたら心のバランスが崩れてしまう。急いで電話をかけ直したのだが、伊織は出ない。 「やられた……拗ねられちゃった、どうしよう……」  困ったことになったかもしれない。自分が蒔いた種だけど、今回は嫌な感じがする。  その後の仕事は、伊織のことが頭から離れなくてちっとも集中できなかった。
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