第57話

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第57話

 帰宅して、伊織が居なかったらどうしよう。そればかりがみちるの心に充満している。 「ただいま……」  気落ちしたまま帰宅すると、リビングから「おかえりなさい」とむすっとした声が聞こえてくる。  瞬間、心底ほっとした。  しかし、いつもなら飛び出して迎えに来るはずなのに、一向に伊織は現れない。  あちゃーと思いながら恐る恐るリビングへ近づいた。勉強をしていた伊織がちらりとみちるを見て、そしてすぐに手元へ視線を戻す。 「伊織くん、あの……」 「お風呂沸いてます。お茶は机の上」 「あ、りがとう」 「どういたしまして」  伊織に話しかけようとしたのだが、寸前でやめた。すごすごとお風呂場へ行き、シャワーを浴びた。 「――みちるさん」  急に脱衣所から声をかけられて、みちるはびっくりして固まった。 「えっと、なに……?」 「折り畳み傘持っていってたの? 俺のぶんまで」  バッグからはみ出していた傘に気がついたのだろう。伊織の影が扉の外に見えた。みちるは恥ずかしくなって逃げるように湯舟へ入る。 「ごめん、渡し忘れちゃった」 「俺、濡れて帰ってきた」  ぽつりとつぶやかれたそれに、心が痛んだ。 「学校で誰かに借りればよかったのに」 「違う。みちるさんが、俺に渡してくれたらよかったんだよ」  珍しく伊織の口調は責めるようだ。 「……みちるさんが来てくれたの、嬉しかったのに」  伊織の影が去って行こうとする。 「ごめん、伊織くん――あのね、」  湯船から出て扉に手をかけた瞬間、伊織が入ってくる。 「や、ちょっと待って……!」 「待たない」  小さな声は凶暴だった。壁まで追い詰められてしまい、唇を塞がれた。責め立てるようなキスに、みちるの足がくずおれそうになる。  伊織がじっとりとみちるを見おろしてくる。 「あとで話してね、俺を無視した理由」 「……うん」  伊織は怒った顔のまま風呂場から出ていく。その場にへなへなと座り込みながら、お風呂につからなくとも熱くなってしまった身体をそこで冷やした。  きちんと髪の毛を乾かしてからバスルームを出ると、伊織はまだ勉強をしていた。みちるが出てきたことに気がつくと、用意しておいた水を指さす。 「ありがとう……」  それを飲んでから、お茶を持って伊織の隣に座った。ちらりと彼の手元を見れば、分厚い教科書にびっしりと文字が書いてあった。なにが書いてあるのかを見ようとしたところで、伊織が本をばたんと閉じる。 「みちるさん、話す気になった?」 「うん」 「どうして俺のこと無視したの?」  伊織は口調とは反対にみちるの手を握り指を絡めてくる。見つめてくる切ない視線に、みちるは本気で罪悪感を抱いてしまった。 「伊織くんが、友達と仲良くしているの見て」 「見て、それで?」 「自分が、なんか場違いに思えて」 「それだけ?」  伊織がのぞき込みながら唇が触れる寸前で止まった。 「言わないとこのまま塞ぐよ。それとも、さっきみたいにされたい?」  お風呂場での口づけを思い出して、みちるは身体が熱くなってくる。苦しくなって伊織をそっと押しのけた。 「話すからちょっと離れて。彼女に悪いから」 「彼女?」  伊織は眉をほんの少しだけひそめた。 「いるんでしょう、伊織くん」 「彼女なんていないけど」 「嘘、だって腕組んでキスしてたじゃない」  みちるが食いつくと伊織は「ああ」と目を細めた。整っているせいで、冷たく無機質にさえ見える顔立ちが、より一層冷たさを増した。
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