第58話

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第58話

「みちるさん、見てたんだ?」 「彼女がいたのも知らなかったの。年下の子に好かれて舞い上がっててた自分がすごく恥ずかしくて」 「こっち向いてよ」  伊織の手がみちるの頬に添えられる。 「彼女いたなら、教えてくれたら良かったのに」 「それで、しょげてたの?」 「しょげてたって言うか、なんていうか」  しょげてたじゃないか、と伊織は困ったなと言うように小さく笑う。 「みちるさんの、バカ。でもものすごく可愛いね」 「ばっ……バカって――」  ゆっくりと唇が重なった。柔らかくとろけるようなそれに、体中から力が抜けそうになる。 「……あいつ、みんなにしてるんだ。帰国子女で海外での生活が長いらしいんだけど、俺は迷惑でしかないよ」 「そ、そうなの?」 「俺からしてないし、ちなみに追い払ったんだけど」  そこまでは見ていなかった。勘違いした挙句、一人で落ち込んで……伊織の言う通り、バカでしかない。 「俺からするのは、みちるさんだけだよ。この先もずっと」  伊織が再度唇をくっつけてくる。物足りない、と思うくらいの力加減で去っていく。切なさと焦らしに、恥ずかしさを通り越して消えてしまいたい気分になった。 「可愛い、みちるさん。嫉妬したんだ?」 「…………うん」 「素直だね」  伊織の口づけが深まった。電撃が身体に走る。 「だからって、これ以上はダメ」 「そんな顔して、説得力ないよ」  みちるは逃げようとしたが、思い切り抱きつかれた。伊織は満足したのか、ニヤリと挑発的な笑みでみちるを見つめてくる。 「もっと見せてよみちるさん。可愛いすぎてヤバい」 「やだ! 離れて!」 「勝手に勘違いして俺のこと無視したくせに」 「それはごめん」 「びしょ濡れで帰ってきたのに」 「ごめんってば」 「じゃあ、態度で示して」  飼い主でしょ、と言われてみちるは困った。 「あのね、その辺のバカな男と俺を一緒にしないで。ご主人様なら、どうやったら俺が喜ぶかわかってるよね?」  こんなに大きなペットを飼った覚えはないとは、口が裂けても言えなかった。自分のところに来て、と言ったのはみちるだ。 「そんなに信用されてない? ペットは飼い主を裏切らないよ。絶対に。捨てられたとしてもね」 「犬とか猫だったらそうだけど」 「いい? みちるさんと一緒にいてもいい男として、圧倒的に不利なのは俺のほうなんだよ」  みちるは目をしばたたかせた。 「あんまりわからずやなこと言ってると、お仕置きするよ?」  待ってと言う間もなく、伊織の柔らかい舌に蹂躙されて思考が真っ白になる。伊織の手がみちるのパジャマの隙間から入ってきて、素肌に触れて止まる。 「――!」 「ねぇ、みちるさん。もう、俺のこと無視しない?」 「しない、しないから、手を」  伊織の指先がみちるの背中をなぞる。 「伊織くん。これ以上は本当に無理……自分を嫌いになっちゃうから」  伊織はにこりと笑って、優しくみちるを抱きしめる。よしよしと頭を撫でられながら温もりに包まれていると、不安やドロドロした気持ちが溶けだしていく。 「もっと信用して、俺のこと。勝手に離れていかないから」 「うん」 「それに、場違いなんかじゃない。俺のほうがみちるさんに釣り合いたくて、釣り合わなくていつも悔しい」  そんなことないのにと思った時には、みちるは伊織をぎゅっと抱きしめて彼のふわふわな髪の毛に顔をうずめていた。 「ごめん、伊織くん。気づかなくて無理させてごめんね」  伊織のことを、心の底から愛しいと思う。彼の頭頂部にキスをすると、伊織は弾かれたように顔をあげた。 「私、逃げるのやめる」  伊織の唇に、みちるは自分のそれを重ねた。
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