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第59話
金魚鉢は空っぽのままなのに、心がどんどん満たされていく。
水だけが入れられた水槽を眺めると、自然と心が落ち着いてくる。
住人のいない水槽を長々と眺めてから、みちるは出社の準備をした。今夜は帰りが遅くなることを伝えると、伊織は穏やかに微笑んだ。
「待っているからね、みちるさん」
「静かに帰ってくるから、先寝てていいからね」
「お利口にお留守番できたら、いっぱいご褒美くれる?」
それにみちるは「はあ」と眉毛を上げた。
「だーめ」
「けち」
朝からこんなやりとりをしてしまい、みちるはしっかりしなくちゃと自分の頬を両手ではたいた。
伊織が甘えたことをいうのは、今日が直登と会う日だからだ。
「飼い主とられるんだから、ちょっとくらい嫉妬させてよ」
「ほんの数時間でしょ。伊織くんも友達と遊んできていいのに」
「その時はちゃんと言うから」
玄関から出て行こうとするみちるの腕を伊織が引っ張る。よろけたところで抱きとめられて、上から覗き込んできた。
「ねえ、ご褒美ちゃんとちょうだいね。待っているから」
「わかった」
「ちゃんと元カレと話してきてね」
「まだわかれてないってば」
もうすぐわかれるんだから一緒だよ、と伊織はニコニコしている。
「別れるか、結婚するか……そう、聞けばいいんだよね?」
「みちるさんの気持ちを、ちゃんと伝えてきて」
伊織がみちるの頬を掴んで「大丈夫」と額をつけた。
「なにがあっても、俺が待っているから」
伊織に勇気づけられつつ、みちるは直登とのピリオドを打ちに向かう。その結果が、吉であれ凶であれ、受け入れなくてはと思いながら。
直登のことを考えると、仕事はどうにもこうにもうまくいかない。気持ちが浮ついてしまい、平凡なミスをした。
すぐさま自分で気がついたからよかったものの、修正に追われるという散々な一日となった。厄日かもしれないと思ったのを、すぐさま首を横に振って追い払う。
「修正したり、バックアップから必要な所だけを戻せたらいいのに……恋愛も」
そんな機能があれば自分自身が成長しないかと思いつつ、無くてもすでに止まってしまっている自分に笑ってしまった。
「だめだな、しっかりしなくちゃ」
せっかく伊織から励ましてもらったんだからと、みちるは気合いを入れる。だから、帰る時に八センチのヒールに履き替えた。
これに履き替えれば、強くなれる自信があったから――。
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