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第60話
「――みちる、待った!?」
待ち合わせの駅でみちるの名前を呼んだのは、帰国したばかりの直登だ。にこりと笑う姿に、みちるはほっとすると同時にチクリと胸が痛んだ。
「大丈夫。お店予約しておいたよ」
真由子が教えてくれたおシャレなイタリアンに入る。
「イタリアンだけど、よかった?」
「なんでもいいよ。それよりこの間は本当に大丈夫だったのか?」
みちるはうなずいたが、本当はあの日以来、みちるの心境は複雑になってしまっている。
「コースじゃなくていいよね?」
「ああ、記念日でもないしな」
そこまで直登がつぶやいて、はたと気がついたような顔をした。
「そういえば……記念日この間だったのに……ごめん」
「いいよ。私も具合悪くなっちゃったから」
記念日でさえ忘れてしまうなんて、とみちるは苦笑いをした。
そういうものなのかもしれない。時間の経過とともに、関係が変わっていってしまうのは、仕方のないことだ。
それがいい方向に変わればいいのに、みちると直登は逆方向に進んでしまっている。
しかし、どちらの方向を向くか決めるのは自分次第なのだ、いつだって。
「ところでさ、一緒に住んでいる友達の弟って、どんななの?」
「気になる?」
みちるはちょっとだけ意地悪に聞いてみた。直登は驚いたような顔をして、「そりゃあ」と尻すぼみになった。
「△△大に通っている、普通の子。今どきって感じ」
「めちゃくちゃ偏差値高いじゃないか」
「私もびっくり。転勤について行くよりも残ったほうがいいよね」
直登は神妙な様子でうなずく。
「料理と洗濯と掃除してくれるの。私ずぼらだから、すごくありがたい」
「みちるは、そういえば家事が得意じゃなかったよな」
「仕事しているほうが合っているとは、自分でも思わなかったんだけど」
先に就職した直登に追いつきたい一心で、みちるは入社一年目から仕事を張り切ってやり遂げた。
おかげで仕事は順調だったが、皮肉なことに、彼女としてのスキルは置いてけぼりになってしまったらしい。
ノンアルコールのお酒で直登と乾杯をした。直登はスパークリングに喉を鳴らしている。
「ああ、やっぱり仕事終わりの一杯って、格別だよな」
「直登は本当にお酒好きだよね」
「満のところに居候している弟のことだけど。酒飲んでなにかあったらとか思ったけど、みちるは酒飲めないし安心した」
お酒を飲まなくても、過ちを犯すことはある。みちるは頭の隅でそんなことをぼんやりと考えていた。
直登に浮気のことを問い詰めたら、お酒のせいだとでも言うのだろうか。それとも、後輩から迫られたからと逃げるだろうか。
どちらにしても、一度きりの過ちであってほしいとみちるは願う。そうすれば、許せない気持ちが多くならずに済む。
青春のキラキラとドキドキした思い出たちを、今現在にきれいなままトレースすることができる。
「安心して。勉強も頑張っているし、そもそも年上に興味ないわよ」
「いい歳だもんな、みちるも。付き合いたての時とは若さが全然違うよ」
みちるは思わず眉根を寄せた。アラサーなのは事実だが、それでもそんな風に言ってほしくなかった。
しかし、はっきりわかったことがある。直登が大事にしているのが『若さ』だということに。
みちるは下唇を噛みしめた。
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