第62話

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第62話

「――みちる、本当にごめん」  視界が滲んだのはほんの一瞬で、そのあと急激に血の気が引いてしまった。  制服姿の直登と自分の姿が走馬灯のように思い浮かんでは消えていく。  楽しい思い出も、喧嘩した思い出もたくさんあって、今となってはキラキラと輝いている。それと同時に、目の前の現実が押し寄せてくる。  スーツを着こなして、短髪をきれいに整えている目の前のできる男は、深々と頭を下げたままとなっていた。 「お店、変えよう」  みちるの提案に、直登は小さくうなずいて顔を上げた。みちるを見ることはせず、気まずそうにテーブルのどこでもない一点を見つめる。  二人の様子がおかしいのはまわりにすぐに伝播してしまう。チラチラと投げられる視線から逃れるように席を立った。  お料理がおいしかったのか、まずかったのか、まったくわからない。ごちそうされるのも嫌なので、お会計は割り勘にしてもらった。 「あっちに、ファミレスあるから……」  賑やかなほうがいいと思った。静かだと気を遣ってしまう。  今の二人はよそよそしさと親密の合間の距離感だ。近くのファミレスへ立ち寄り、ドリンクバーとおつまみだけを注文した。  それらが揃うまで黙ったままで、どちらからも声を発しようとはしなかった。  重たい雰囲気に肩が凝りそうになったところで、直登が口を開いた。 「……後輩なんだ」 「浮気相手?」  うん、と直登はうなずいてお茶を一気に飲み干す。先ほどまでの饒舌っぷりはどこへいったのか、神妙な面持ちをされると逆におかしな気持ちになった。 「ずっと言い寄られていて、帰国するたびに会いたい会いたいって。みちるが……彼女がいるって言っても聞かなくてさ」 「熱烈ね」 「二十代前半。新卒採用の一年目。アプローチがあからさまだから、会社でももういっそ付き合ってやれって、先輩や上司にも言われてて」  周りから固めにかかったら、人のいい直登は拒めないだろう。それはみちるもそうだ。お互い、似た者カップルなところが玉に瑕だ。 「俺とデートしなかったら、会社辞めるって言いだしたんだよ」 「うわ……」 「それで、まずいことにその子、取引先の会社の一人娘らしくて、部長が困ってさ」  会社を辞めるとまで言い出すなんでと思ったが、二十代前半の恋愛に対して猪突猛進できる体力を思えば、それはそれで納得してしまった。 「一回だけのつもりだったんだ」 「うん」  優しい直登は断り切れなかったのだ。それをみちるは理解できた。 「だったんだけど、もう一回、もう一回って言われる度に……ごめん」  再度謝られて、みちるはストローでコーラをすする。プシプシと弾ける泡は弱く、気の抜けた味がした。 「そうね、それは断りにくいわよね」  そう返事をしておいてから、でも、楽しそうにしていたじゃないかという言葉を喉の奥でひっこめた。
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