第63話

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第63話

「みちるには言いにくくて」 「そうよね」  かなり言いにくいのは想像に難くない。  でも、今目の前で謝って顔色を失っている彼氏と、メッセージを受信したときにほんの少し嬉しそうにしていた彼氏とが、イコールで結びつかない。  いや、イコールではあるのだけれど、話された内容と態度と気持ちが、イコールで結ばれないように感じてしまう。  後悔しているように見えるし、実際に反省はしているのだろう。  だがしかし申し訳ないと思う一方で、浮気を楽しんでいなかっただろうか、とみちるは懐疑的だ。 「みちるだけだよ、俺が好きなのは」  直登がそんなことを言うのは珍しい。ここで別れてくれと言われるかと思ったのに。 「後輩はまだ若いから、周りが見えていないだけなんだ。そのうち、きっともっといい男が現れれば、俺なんて見向きもされなくなるよ」 「そうね」 「だから、もうなるべく会社以外で会わないようにするから。みちる、ごめん」 「うん……」  ホテルに行ったのに? と思ったし、身体の関係だってあったのでしょう、と聞きたい気持ちはある。  それを聞いても、事実であった時に傷つくのは自分だ。  わざわざ、怒りを呼び起こすことをする必要はない。事実を知って良くなるなんて、この場合は無いだろう。 「別れないでほしいんだ。後輩にも、上司にもちゃんと言うから」 「そう」 「結婚だって考えている」  じゃあなんで浮気するのよ、とみちるは心の片隅で思う。  結婚する気があるから、独身のうちは浮気しても許されるのか、と。  ゴールをちらつかせて、キープされているだけのようにも感じたのだが、そうじゃないかもしれない。  現時点で、冷静な判断を自分が下せるとは思えなかった。  怒りと悲しみと複雑な感情が渦巻いている。結婚すると言われても、気持ちが晴れやかにならない。 「別れないでほしい、みちる。みちるだけなんだよ」 「考えさせてほしい」  みちるが絞り出すと、直登はハッとしてみちるを見つめた。その瞳には安堵が見え隠れし、目元は今にも泣きそうに真っ赤になっていた。  直登は反省しているようだ。  プライドが高い直登が、人前で頭を下げて泣きそうになるなど、みちるは見たことがない。だからその姿は衝撃だった。 「もちろん。またすぐ会える?」 「うん……でも、ちょっと考えたいから。帰国するときはまた教えて」 「ありがとう、みちる」  まだ別れるともこのままでいいとも、許すとも言っていないのに、直登は許されたような顔をしいる。 「帰るね、私」  お札を一枚置くと、みちるは席を立った。 「みちる」 「なに?」 「ありがとう」  頭を下げられて、みちるはそれをじっと見てからうなずいた。  今は考えたくなかった。帰りの電車でぐるぐると考えが巡って、気持ち悪くなりながら帰宅した。 「――ただいま」  ドアを開けた途端、伊織が駆け出してきて抱きしめてくれた。  みちるはそこでやっと泣けた。
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