第66話

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第66話

 とんでもないことをしたと、みちるは頭を抱えたまま出勤した。しかし、そんなみちるとは反対に、伊織はいつも以上に機嫌がいい。  朝からコーヒーとスコーンを作って、甘い香りをまとわりつかせつつ、頬にキスをしてみちるを起こした。  甘い寝起きだったのだが、昨日の行いが脳裏から離れずに深い溜息しか出てこない。  おまけに、伊織の素肌の感触がフラッシュバックしてきて、信じられないくらい仕事に身が入らなかった。 「あー、もうダメだ、ダメダメ」  集中しなくては、とみちるはパソコンに向き直るのだが、頭の中が靄がかったようにもやもやしている。  だが、伊織のおかげで、直登の浮気した発言についてそれほど深刻になっていない。それは今のみちるにとって幸いなことだった。 「――今村、ちょっと休憩してきたら?」  苦笑いと共に上司に肩を叩かれ、みちるは素直にうなずく。 「ついでに外回り行ってきます」  ヒールに履き替えて、しっかりしなくちゃと頬を叩きつつ会社を出た。外に出れば、ピリリと冷たい風が全身に当たる。  バレンタインを目前に、心なしか街中が浮足立っているような感じがした。  外回りをすれば気分も変わると思ったのだが、今日に限ってはそう上手くいかない。  あちこちでバレンタインの看板が視界に入り、真剣にプレゼントに悩む女性の姿を見る度に、心がぞわぞわした。 (直登は論外だし……伊織くんには、やっぱり渡すべきだよね?)  デパートの特設コーナーに立ち寄ってみたが、品ぞろえの多さに頭を悩ませる。試食をいくつかもらってみたのだが、伊織の味の好みがわからずだった。 「聞いちゃおっかな。なにが食べたいかとか、どんなチョコが好きかとか」  携帯電話をポケットから取り出したところで、「わ!」と後ろから肩を掴まれる。 「わ――っ!」  携帯電話を落っことしそうになりながら、大慌てで振り返ると、蘭がニヤニヤしながら手を振っていた。 「もー……蘭! 驚かせないでよ」 「ずっと手振ってたんだけどさ、みちるぜんっぜん気がつかないんだもん!」  みちるは力がすこんと抜けて苦笑いした。 「で、あのあとどーだったのよ、彼氏とは? ちょっとお茶しよ、暇そうなんだから!」 「あ、えっと、暇じゃないんだけど……まあいっか」  どうせ今仕事に戻ったところで、まったくと言っていいほど向き合える自信がない。  こんなことは初めてだ。  蘭に引っ張られるようにして、デパートの上の階にあるカフェへ連行される。  あっという間に注文を済ませて、外の見える窓の大きい席へ蘭は駆けていく。友人の底抜けな明るさに、みちるは今はものすごく癒された。
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