第70話

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第70話

 唇は飴じゃないんだからと抗議を入れると、伊織はじっくりとみちるを見つめてくる。 「飴みたいなもんだよ。かわいい、みちるさんの唇。食べちゃいたい」 「なにを言って……」  唇で唇を挟まれて、ペロンと舌先が唇の隙間を通過する。 「飴だったらいいな、舐められたのに」 「恥ずかしいこと言わないでよ。もう終わり、ご褒美終了!」  伊織は慌てふためくみちるに満足したようで、おとなしく引き下がった。 「油断も隙も無い……」 「なんか言った、みちるさん?」  なんでもないと語気を強くして伝えてから、みちるはやっとほっとしてソファに背を預けた。  携帯電話を取り出してみると、蘭からメッセージが来ている。みちるは忘れかけていた昼間の話を思い出す。 「そうだ! 伊織くん、あのね、バレンタインデーなんだけど」 「俺がガトーショコラ作るから、一緒に食べよう」  先に言われてしまって、婚活パーティーのこの字さえ言い出せずにみちるは固まる。 「あ、うん……」 「お料理はなにがいい? とっておき作ってあげるよ」  みちるは伊織の笑顔と無邪気な提案に罪悪感が増してしまって、あちゃーと思う。 「ああと、その……仕事が入っちゃって」  伊織は勉強していた手を止めて、きょとんとした目でみちるを見る。 「そうなの? じゃあ仕方ないね。翌日にしよっか。でも、ケーキは当日食べたいな……帰り遅い?」  正直、みちるはホテルのブッフェも食べたかったのだが、伊織が作るケーキも食べたくなってしまった。  こんなに可愛い子が手料理を作って待っていてくれる幸せを思えば、婚活パーティーに行かなくてもいい。  しかし、せっかく勧めてくれた蘭の気持ちも、無下にできない。  仕事を隠れ蓑にするのはずるい気がしたのだが、どうしようもなかった。  素直に言っておこうか迷った挙句、言葉を飲み込んだ。 「ちょっとだけ遅いけど、帰ってくるから。そうしたら一緒に食べたい」 「待ってるね! 翌日にテリーヌとか作って一緒にハッピーバレンタインのお祝いしよう」 「いいけど、でもそういうのって恋人同士がするんじゃ」  言いかけたみちるの唇を、伊織の人差し指が止める。覗き込んでくるいたずらな瞳に負けて、みちるはため息を吐いた。 「わかった。お祝い一緒にしよう」 「さっすがみちるさん。超最高の飼い主! 俺が選んだだけある」  ぎゅっと抱きつかれてそのままの反動で押し倒された。  慌てたのだけれども、伊織は離れるそぶりがない。頭を撫でると、心地好い髪の毛の柔らかさに幸せな気持ちいっぱいになった。 「ねぇみちるさん、本当に仕事?」  いやに鋭いなと思いつつ、みちるは仕事仕事、とそつなく返事をする。自分ではちゃんとごまかせたと思う。  しかし伊織が上目遣いに覗き込んでくる。その視線からそらさないように努力した。 「ちぇ。みちるさんを独り占めしようと思って楽しみにしていたのに……絶対早く帰ってきてよね」 「わかった」 「遅かったら、ご褒美じゃなくてお仕置きだからね」 「肝に銘じます」  触れるだけの約束のキスは、呪縛のようにみちるを覆った。
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