第71話

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第71話

 みちるの複雑な気持ちを知ってか知らずか、伊織は残酷にもバレンタインを楽しみにしているようだ。  その証拠に、翌日持越しのバレンタインディナーの食材なのか、冷蔵庫に野菜が豊富にそろえられている。  ついでに言えば、ケーキの材料やチョコレートも見かけて、みちるは罪悪感に苛まれた。  大人とは複雑な生き物だ。  特に、年頃の女性はわざと自分のまわりを複雑怪奇にして、ドラマティックに演出するのが得意になってしまっている。  そんなのはテレビだけで十分なのに、現実にまでそれを持ってきてしまう。  罪悪感がすごすぎてと蘭に相談すれば、スパッと一言「行ってくるって言えばいいじゃん」と言われておしまいだった。  まさしく蘭の言う通り、隠さなければいいのに、バカだなとみちるは自分でも思う。  誰も傷つけたくないがために、結局全員傷つける。そして、自分もただじゃ済まされないような選択をする。この自虐的で悲劇のヒロイン的ルーティーンを抜け出すにはどうするべきか。  考えた挙句、バレンタインデー当日の朝、伊織を掴まえた。 「どうしたの、みちるさん……なんか切羽詰まった顔して」 「あのね、伊織くん。言わなきゃって思ってたことがあって」 「まさかお見合い行かなくちゃとかじゃないよね? それとも合コン? 婚活とか?」  冗談交じりに言われたのだが、あまりにも図星だったので伊織を見つめて固まってしまった。  そのみちるの反応に驚いたのは伊織のほうで、きれいな顔がみるみる真顔になっていく。 「……みちるさん、まさかほんとに、お見合い?」 「違うけど」 「じゃあどれ?」  恐る恐る婚活パーティーと言うと、伊織はむっとした顔をした。責めるようにみちるを見つめたが、それ以上はなにも言わない。 「ごめん……あんまりにも楽しそうにケーキ用意してくれるって言ってたから、今日のこと言い出せなくて。友達が、私のことを心配して誘ってくれたの」  伊織は最後までみちるの言い分を聞くつもりのようだ。ソファに並んで座っていると、カチコチと時計の秒針の音が妙に耳につく。  もう出勤しないといけない。その前に、免罪符を得なくてはならない。 「どっちの顔も立てなくちゃと思ったら……嘘ついてごめん。仕事の勉強にもなるから、行こうと思って」  そこまで一気に言ってから伊織を見ると、まさに無表情だった。  きちんと今日のことを言わなかったことを後悔した。  後悔ばかりで、前に進めていない自分が情けない。 「みちるさん、結婚したいの?」 「へ?」  予想とは違う事を言われて、みちるは気の抜けた声を出した。 「未来のダンナサマっていうの、探しに行っちゃう感じ?」 「いや……そういうわけじゃなくて」  誘われたし、断るのももったいなくてと付け加えると、伊織はふーんと気のない返事をした。 「俺は、ペットだけど……」  みちるの手を掴んで、伊織は躊躇いなく指を齧る。痛みに思わずみちるの身体が跳ねた。 「恋人にだってなれるよ、みちるさんが望んでくれれば」  伊織は噛んだところを今度はぺろりと舐めた。
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