第78話

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第78話

「……ちぇ。みちるさん、ガードがいつまでたっても固いんだから」 「当り前じゃないの、彼氏がいるんだから」 「バレンタインに連絡もよこさない、浮気者の彼氏ね」  伊織は興ざめしたのか、元の位置に座り直す。みちるも起き上がって、ヒットポイントを削られた気になりながらも、映画に視線を戻した。 「別れちゃえばよかったのにね」 「そうね……」  それが簡単にできれば、人生楽しいに決まっている。複雑にしている自覚はあっても、そういう性格なのだ。 「忘れるのには、次の新しい恋が一番だと思うよ、みちるさん」 「う……確かに」 「新しい恋にのめりこめれば、みちるさんなら立ち直れそうだけどね。ねえ、俺と新しい恋する?」 「はい?」  素っ頓狂な声を上げてしまうと、伊織はその反応にケラケラと笑い始めた。 「みちるさん、顔、真っ赤――」  急にそんなことを言われて、みちるはオーバーヒートした。ペットでいいと言っていたじゃんか、と小さく抗議すると、伊織はみちるの髪の毛を指に巻き付けた。 「ペットだって、貪欲なの。美味しいものが食べたくなるの。贅沢なんだよ、俺は」 「一体いつからそんな、高級ペットに……」 「んー。前から」  伊織はみちるの髪の毛にキスすると、物足りなかったのかそのまま素早く肩を抱き寄せて、みちるのおでこにキスした。 「新しい恋の練習係してあげよっか?」 「いや、ダメ、絶対無理ダメ!」  みちるはとっさに断ったのだが、伊織は不満そうに口を尖らせた。 「そこまで全力否定する?」 「する! 無理、絶対、ダメ!」  ちぇっと言いながら、伊織はむっとしたのか、みちるの唇を舐めた。キスはしていないというこじつけで、伊織はみちるの唇を舐めてくることが格段に増えていた。 「そ、そういうのがあるからダメなんだってば……」  みちるは自分でもわかるくらいに顔を熱くしながら、伊織を押しやった。伊織と恋の練習をしたら、とんでもないことになりかねない。  この一見無害そうな青年は、有毒物質に近い。じわじわと蝕むように攻めてきて、確実に王手をかけられること間違いない。  それに本気になってしまったあとで「練習でしょ?」などと言われたら、穴に入ったまま二度と出て来たくない気持ちになるに決まっている。  そしてなにより恐ろしいのは、たとえ、ふりで練習でリハビリだったとしても、こんなやり手の子に迫られることに慣れるのが怖い。  いざ普通の恋ができるかと言われたら、もはやできない気がしてならない。  あちこちにいるスーツを着たサラリーマンも、その辺を歩いている今どきの若者も、かすんで見えるようになるに違いない。  ――夢物語から、二度と帰って来られなくなる。  みちるが伊織に警戒するのは、そういうところもあった。 「そんなに否定されると傷つくけど、俺でも」 「だって、伊織くんは、顔も家事スペックもすべてのレベルが違いすぎるもの」 「みちるさんを甘やかすスペックも高めなんだけどなぁ」 「だからダメなの!」  しどろもどろになっていると、伊織は困ったように、でも恐ろしく優しい笑顔でほほ笑んできた。  ほんの少しのその表情でさえも、くらっとする。みちるはずっと、伊織に満たされ続けていた。
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