第80話

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第80話

 ホワイトデー当日は無理だったものの、その三日後に休みが取れた。  伊織は数日前から嬉しそうにしていて、そのせいかいつもよりもボディタッチも多ければ、ゼロ距離でずっとくっついてくる。  ほだされるもんか! と心に決めなければ、この可愛らしい悪魔のようなペットは制御不可能だ。 「デートって、デートでいいの?」 「そ、デートでいいの」 「だから、これ着るの?」 「そういうこと」  当日渡されたのは伊織のパーカーで、それはみちるにとっては大きい。しかし、どうしても着てほしいと言われたので、それに着替えて、タイトなスキニーを合わせた。  着替え終わってリビングへ行くと、先に着替えていた伊織が、みちるの頭にキャップをかぶせる。 「リンクコーデの出来上がり。さ、行こうみちるさん」  見れば伊織も同じパーカーを着て、キャップをかぶっている。若づくりに見えないか心配になったのだが、伊織はそれを察知して「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。  伊織のパーカーはやっぱり大きくて、袖口もダボッとしてしまうのだが、それが伊織的にはツボらしい。  ずっと笑顔で手を繋いで歩く姿は、まさしくご機嫌、といった感じだった。  電車に乗り込んでからけっこうな人出にぎょっとしたのだが、朝の通勤ラッシュの残りだ。もう少し時間を遅らせればよかったかと思ったのだが、伊織は早く行きたいからとほほ笑んでいた。 「みちるさん、掴まってて」  押しやってくる人の波に揉まれそうになっていると、伊織がみちるを掴んでぐい、と片腕で抱き寄せる。  伊織はつり革が吊ってある鉄棒をがっちりつかんでおり、みちるに向かって優しい笑みを投げかけていた。 「あ、ありがと」  どういたしまして、と言いながら、伊織の腕がさらにぎゅっとみちるを抱き寄せる。思わずドキドキしてしまって、みちるは心臓の音がいおりに伝わってしまわないか心配になった。 「ちなみに、どこへ行くの?」 「水族館」  それにみちるはぱっと顔を上げた。 「好きでしょ?」 「うん、すごく好き」  みちるが嬉しくてニコニコしていると、伊織の顔が近寄ってきた。 「買った水槽、結局使わなかったもんね。今日はおっきい水槽見よう」  見上げると、濃いまつ毛に縁どられた、美しい瞳と目が合った。 「金魚のかわりに、俺が来ちゃったから」  そういえば、そうだったと思い出す。  元々はペットを飼うつもりでペットショップに行っていたのに、気がつけばこんな大きな青年が家にいる。 「俺じゃ不満、みちるさん?」  ちゅ、とほほにキスをされて、誰かが見ているかもしれないじゃないか、とみちるは大慌てした。 「ちょっと、伊織くん!」 「誰も見てないよ」  ふふふと笑われて、みちるはキャップを目深にかぶり直した。 「俺今日一つ失敗したかも」 「なになに、どうしたの? 大丈夫?」 「みちるさんが、俺の服着てるのとか……ちょっとヤバい」 「……そんなこと考えないで、もうっ!」  そんなやり取りをしながら、乗り換えをして、大きな水族館へ入った。
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