第82話

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第82話

 夢のような水族館デートの後の激務に、一瞬にして仕事モードに戻ったのは言うまでもない。  ホワイトデーのお返しとして用意してあったタンブラーを渡せたのはその三日後で、伊織はそれにものすごく喜んだ。 「エプロンにしようか迷ったんだけど……伊織くんにお食事毎日作れって言ってるみたいで押しつけがましいかと思って。これなら学校でも使えるよね」 「みちるさん、嬉しい――」  そのまま布団に押し倒されて、びっくりするような甘いキスをつい受け入れてしまってから、みちるは罪悪感に浸る日々を送っている。 「ああ、このままじゃ絶対まずい」  伊織の押しの強さに、みちるはたじたじしている。嫌ではない所が厄介だ。 「先輩、私もまずいです!」  真由子が半べそになりながらやってくる。発注ミスでもあったかと身構えると、真由子はぐったりとデスクに倒れ込んだ。 「合コンなんですよ、合コン。久々の」 「え、合コン?」  突然切り出されて、みちるは目を白黒させた。 「そうなんです。でも、一人来れなくなっちゃいそうで、そうすると流れちゃうかもで……あーん、私も彼氏欲しいです、春もうすぐなのに」  みちるはそれに苦笑いをする。 「彼氏ね」  居ても居なくても変わらない彼氏なら、作らないほうがいいかもよ、とは口が裂けても言えない。みちるは十分に反省していた。 「先輩、人数合わせで来てもらえないですか? とか言ったら失礼ですよね。彼氏さんいるのに。でも海外だし、絶対バレないですよね?」 「いや、それは……」  さすがに、と思ったのだが真由子は合コンを諦められないらしい。どうやら、かなりハイスペックが揃うとのことで、流してしまうわけにはいかないと泣きそうだ。 「……人数合わせるだけなら」  みちるは真由子がものすごく落ち込んでいるので、つい口をついて言葉が出てしまった。 「本当ですか!?」 「でも、人数合わせってだけだからね。先方にも伝えて欲しいんだけど」  それ以上でも、それ以下でもないぞとみちるは念を押す。  そして、この期に及んでまたもやおせっかいを発動してしまい、みちるは我ながらなにを八方美人なことをしているんだと、後になってどっと後悔が押し寄せてきた。  しかし、喜んでいる真由子の姿を見れば、自分にできることをしたのだと思えなくもない。  別の人の都合がつけば、そっちの人と交代という決めごとを作って保険にした。  伊織にはなんて言おうかと思ったのだが、またもやこじらせると反撃が痛い。素直に人数合わせの合コンだと言おうと思い、携帯電話を取り出して、メッセージを入れようとして止めた。 「拗ねるよね、絶対」  拗ねた時の伊織は怖い。どんな仕返しをされるかわからない。結局散々迷った挙句、電話で伝えることにした。  伊織は案の定機嫌を悪くしたような声音だったのだが、誘われたけれど断ろうとしていた飲み会に自分も行くと声を尖らせる。 「じゃあ、伊織くんも遅くならないようにね」 『みちるさん……」 「ん? なあに?」 『やっぱいい、なんでもない。俺は楽しんでくる。でもみちるさんは楽しんできちゃダメ。絶対に帰ってきてよね』  それにみちるは苦笑いをした。  もちろん、と伝えて電話を切る。伊織の夕食を食べられないのは悲しいが、たまには後輩とお出かけも悪くないと気持ちを切り替えた。
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