第85話

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第85話

「そもそも、一人欠員で補欠なんです」  博嗣はぽかんとした後にまたや笑う。 「この間も、そんな感じじゃなかったっけ?」 「なかなか恋愛には向かないみたいで」  そうは言いつつも、ドキドキや刺激がいらないわけではない。要はバランスなのだが、それが一番難しい。 「キャリア志向なの?」 「うーん。どちらかと言えば。気がついたら係長になっていたわけで……」  仕事は好きだ。没頭できるし、好きなことをやらせてもらえているという気持ちがある。体力勝負だから、あと何年続けられるかわからないけれど、それでもできる限りこの仕事にずっと就いていたい。 「役職が欲しいわけじゃなかったんですけど、役職でしか自分のキャリアを表せないから」 「そうだね。でもその歳で係長だと、けっこうやり手かな」 「好きなことをやっていたらこうなっただけです」 「確かにそれじゃあ、恋愛向かなそうだね」  博嗣はバーテンに向かってまたなにかを注文する。みちるはそろそろ戻ろうかと思っていたのだが、博嗣に腕を掴まれた。 「この後、もう少し飲み直さない?」 「えっと……」 「さすがに、二度も断られると俺も傷つくんだけど」  おごってもらったお酒もある手前、みちるはうなずくしかできなかった。 「じゃあ、終わるころに合流ね。この店の道路挟んで向かいに書店がある。そこで待ち合わせ」 「わかりました」  お辞儀をすると、カクテルを持って元いた席に戻る。一歩カウンターから離れただけで、店内の喧騒が騒がしく耳に戻ってきた。  振り返ると、博嗣は人好きのする笑みで、バーテンとなにかを話している。オシャレな雰囲気に、独特な空気感のある人だ。  席に戻ると、真由子がさりげなく肩を寄せてきた。 「先輩、先ほどの色気のあるイケメンは?」 「この間ちょっと知り合った人で、偶然居合わせたの。あっちの結婚式の二次会だって」  へえ、と真由子が後ろで騒いでいる人たちを見る。 「この後、誘われました?」  確信的に聞かれて、みちるはどきっとしながらうなずく。真由子はにやにやしながら、嬉しそうにみちるの肩をつついた。 「実はこのあと、定番ですけどカラオケになったんです。一人、そこからなら来れるって言ってて……先輩抜けますか?」  それは、真由子なりの気の遣いかただ。みちるはなんとなくほっとして、うんとうなずく。真由子は友達にも連絡しておくと携帯電話を取り出した。 「こっちの人たちもハイスペックでしたけど、先輩、さっきの人とのほうが絵になっていましたよ」 「ないない。こっちはカジュアルなパンツスーツ、あっちは高級なスリーピース」 「服じゃなくて、雰囲気が」  もう、と真由子は口を尖らせた。時計を見ると、二十一時だ。  楽しんできちゃダメと、どこぞのペットに言われた気がしたのを思い出す。しかし、一杯お酒に付き合うくらい、社会人のたしなみにすぎない。  携帯電話を見てみたが、伊織からのメッセージは無かった。向こうは向こうで、若者同士楽しんでいるに違いない。  そう考えると、なんだかちょっとだけ気持ちに余裕がもてなくなってしまう。お開きになると、向かいの書店に向かうことにした。
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