第86話

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第86話

 書店で最新号の建築雑誌を見ていると、「みちる」と声をかけられた。  品の良いスーツを着た上背のある男性が、早足に近寄ってくる。その姿に、女性数人が視線を向けていたので、何とも目立つ人だなとみちるは息を大きく吐いた。 「この先に、カクテルの美味しい店があるんだ」  身構えると、博嗣はくすりと笑った。 「好きなカクテルの味を探しに行こうよ」  それならばとみちるはうなずく。雑誌を置いて書店を出ようとすると、さらりと腰に手が回ってきた。慌てると「危ないって」と引っ張られる。 「人多いんだから、気をつけて」  大人なエスコートに、慌てた自分のほうが恥ずかしくなる。もう任せたほうがよさそうだなと判断すると、博嗣は遠慮なしに腰に手を添えてきた。 「バーっておしゃれだけど行きにくいよな。女性だと、やっぱり気になる?」 「わたし、お酒は全然飲まないから」  間違っても、B級ホラーが好きとは言えない雰囲気だ。 「そっかそっか。じゃあ、深酒はダメだな。カクテルは甘いから、つい飲めちゃうのが怖い所でさ。はいここ、ついたよ」  すっと手を引かれて、階段を下りて地下のお店へ入る。足を踏み入れると、とてもオシャレなのに気取ってない雰囲気なのがわかった。  カウンターに腰を下ろすとナッツが置かれる。どう頼んでいいのかわからないでいると、博嗣はみちるを覗き込んできた。 「甘い方が好き?」 「辛いのはちょっと苦手かも」 「じゃあ、次はマンハッタンにしようか」  お手上げだと肩をすくめる。博嗣が頼んでくれたので、ただ待つだけとなった。やってきた真っ赤なそれを見ると、みちるは思わず顔を輝かせた。 「きれい」 「でしょ。さっきのはブランデーベースで、これはウイスキーベース」 「大橋さんは、頼まないの?」 「君のお下がりをもらうつもり。好きな味を探しに行こうって誘ったんだから、数種類はのい比べてもらいたいし」  博嗣はドライフルーツを摘まむと、みちるに早く飲んでよと言わんばかりのいたずらな笑みを見せる。  赤い液体の入ったグラスを持ち上げると、香りをかいでから口へ運んだ。 「これも、美味しい!」 「でしょ。これはカクテルの女王って呼ばれているの。ツンケンしている君にぴったり」  そんなにツンケンしているかなと首をかしげたところで、博嗣が肘をついた手の上に顔を乗せた。自然と物憂げな雰囲気が流れ出る横顔は、女性キラーに違いない。 「この間、ディスプレイの写真を撮っていたのは君の仕事?」 「そう言えば写真を見せてって言われていましたね。きれいなディスプレイを見ていると、どうしても気になっちゃって……」  撮った写真を見せながら話をすると、博嗣はうんうんとうなずきながら聞いてくれる。マンハッタンを飲み終わるころに今度はバラライカを注文した。  真っ白でさわやかな口当たりのお酒を飲みながら、夜はあっという間に更けていった。
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