第87話

1/1
前へ
/107ページ
次へ

第87話

 話がついつい弾んでしまってから、みちるは時計を見て仰天した。早く帰るつもりだったのに、とっくに終電が近づいてきている時間だ。 「ごめんなさい、つい楽しくてこんな遅くまで」 「いいよ、俺も息抜きできた」 「そう言ってもらえると、かなり肩の荷が下ります」  みちるは財布を出そうとして博嗣に止められた。 「貸しをつくりたいから、ごちそうする」 「それは困ります」 「じゃあ、この後ホテルに行かない?」  なにを言われたのかわからず、みちるはきょとんとして博嗣を見上げた。 「はい? ホテル?」 「君を抱きたいんだけど」  どストレートに言われて、やっと思考が追い付いてきた。みるみる全身が熱くなってきてしまい、慌てて身を引く。みちるの反応を見ていた博嗣は、こらえきれないように笑いだした。 「なに、その反応は……男を知らないわけじゃないでしょう?」 「あ、と……その、ええと……」  じりじりと後ろに下がって、椅子から転げそうになったところを博嗣の腕に支えられた。そのまま甘い官能的な瞳に見つめられてしまい、みちるは固まる。 「仕事を頑張っている女性が好きなんだよね。君みたいなツンケンした美人がベッドの上で乱れる姿、想像するだけでけっこうくるんだけど」 「勝手に想像しないでください」  悪びれるそぶりもなく、ふふふと博嗣は笑った。 「彼氏いるの?」 「そっちを先に聞いてよ!」  みちるは指の先まで真っ赤になっていた。 「いますよ、一応。遠距離でほとんど会えないけど」  余計なことを言ってしまった。とっさに口元を手で覆ったが、ばっちり博嗣には聞こえてしまっていた。 「じゃあ、バレなくていいね」 「そういう問題じゃ――」 「マスター、お会計お願いします」  カードがカウンターに置かれて、みちるは大慌てで財布を取り出した。しかし、博嗣に止められてしまう。 「貸しにしておく? ホテルで清算する?」 「お酒三杯くらいの値段ですか、私って?」  むっとして言い返すと、博嗣はいいねと口の端を持ち上げる。 「さらに興味が湧くなあ。だいいち、俺の格好見て仕事のことを聞かない所も、自分の仕事の話しかしない所も、すごい好みなんだけど」 「それなら、今から聞きますから好みから外してください」  さらに口を開けたところで、唇に手を当てられた。戻ってきたカードをしまうと、博嗣は立ち上がってみちるをエスコートする。  外はまだ寒くて、店の中が暖かかったことを知る。お酒で温まった身体に、春にならない夜気は滲みるように痛い。 「俺こっちの駅だけど、君は?」 「私はあっちです」  じゃあここでお別れだね、と言われて、みちるは立ち止まってお辞儀をした。 「本当に、ごちそうさまでした」 「また誘ってもいい?」 「ええと」 「誘うよ」  覗き込まれてしまい困った。伊織とは違った、優しそうでとろけるような顔立ちが間近まで迫ってくる。 「……友達の弟と一緒に住んでいるから、あんまり外食とかはできなくて」 「外泊ならいい?」 「からかわないでください」 「からかってない、本気。都内の夜景が見える、ホテルの最上階のスイートならいい?」 「な、に、を言って……」  ふと頭の後ろを持たれて引っ張られ、唇が触れた。ハッとした時にはさらに強く塞がれる。  さっき飲んだカクテルのように、びっくりするくらい甘いキスだ。  ――気をつけてね、カクテルは甘いけど強いのが多いから。  先ほどの博嗣の言葉が思い出されて、やられたと思ったが遅かった。 「またね、みちる」  後頭部を押さえつけていた手が首筋を撫でる。耳元で囁かれ、唇がそこに触れる。にっこりと笑って去って行く後ろ姿を見送りながら、みちるはぐったりしてしまった。 「最悪……」  なにが最悪かと言えば、とっさに拒めなかったことだ。みちるは両頬をパンと引っぱたくと、早足で駅へ向かった。
/107ページ

最初のコメントを投稿しよう!

137人が本棚に入れています
本棚に追加