第90話

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第90話

 ――ディスプレイは季節ごとに変わる。そこには憧れだったり、きれいだったり、人を惹きつけるものが求められる。  小さなガラスの向こうには、現実世界とリンクしつつも、異次元を広げなくてはならない。  だからみちるは、ディスプレイが好きだ。ドキドキとワクワク、感動とハッとするような瞬間をくれる。  狭いケースの中に広がる、無限の可能性と美しさと可能性が好きだ。だからこそ、みちるはいつまでたっても、少女のような心で居続けてしまっているのかもしれない。  恋愛をこじらせ、結婚をこじらせ、そして今は生活をこじらせている。  元凶とも言えるペットの伊織は、そんなみちるをからかっては困らせている。しかし、掃除洗濯片付け料理ができる彼を、今さら手放せるわけがなかった。  疲れて帰宅しても用意されている手料理に、誰もがうらやむような美しい青年が懐いて出迎えてくれる。  部屋は清潔が保たれ、服はきちんと畳まれて戻される。  正直、極上の生活だった。  仕事も楽しくできて、プライベートも充実している。困ったことと言えば、ペットがちょっとだけ色っぽすぎるところと、本当に付き合っている彼氏とはうまくいっていないことくらいだろう。  それを除けば、みちるの生活は標準ルートだ。  そして、係長となってキャリア街道まっしぐらの中。その日、社長が顔を上気させて持ってきた案件に、事務所の全員が驚きと喜びを噛みしめた。 「聞いて聞いてみんな!」  ドアを思いっきり開けながら入って来た社長は、頭の頂上から湯気が出ているのが見えるくらい、ホクホクとした顔をしていた。 「すごい案件が取れたんだよ!」  資料とともにデスクに転がり込んできたので、みんなが一斉に手を止めて、何事かと社長の周りに集まってくる。 「じゃじゃーん」  見れば契約書を、黄門さまの印籠よろしく見せつけてくる。スタッフ揃って顔を寄せてそれを読んで、みんな固まった。 「え、まさか本当にあのデパートのウィンドウデザインですか?」  その契約書には、けっこう規模の大きい有名デパートのディスプレイとの内容が書かれていた。 「先方が、専門でやっている僕たちに目をつけてくれてね……それで、デザイン気に入ってくれたから話をしてたら、あれよあれよという間に」  仕事が取れる時というのは、突発的だったりする。みんな仰天していたのだが、社長は鼻高々だった。 「今村くん、この案件のリーダーいけるかな?」  丁度大きい仕事も片付いて、みちるは細かい作業に移る所だった。それは別の人に任せてもいいから、デパートの案件をして欲しいと社長直々に言われた。 「私ですか?」 「実はご指名なんだよ」  それにみちるは、少し考える。じぶんよりももっと若手に任せたい気持ちもある。困って返事を渋っていると、みんながじっと見つめてきていた。 「先輩、ガツンといっちゃってください!」  真由子のそれに、うんうん、と周りもうなずく。 「よし、竹村くんもそう言っていることだし……頼むよ、今村くん」  みちるは一瞬どうしようかと思ったのだが、足元を見て笑顔になった。外回り帰りで、お気に入りのヒールを履いたままだったのだ。  ヒールはみちるに勇気をくれる。大きい案件だけれど、これをチャンスと思うかプレッシャーと思うかは、人次第だ。  一瞬プレッシャーになりかけたのを、みんなの笑顔とハイヒールが応援してくれた気がした。  みちるはうんとうなずくと、「ご指導とサポートよろしくおねがいします」と深々と頭をさげた。
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