第91話

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第91話

 さっそく、細かい打ち合わせになった。案件が取れて二日後、みちるは社長とともに打ち合わせへ向かう。  よく晴れて暖かい日で、絶好の打ち合わせ日和だ。  こんな時は、サクサク話が進むことをみちるは経験でわかっている。きっと良い案件になるに違いないと、気合いをしっかり入れた。  向かった先の中堅デパートは、老舗ほどの貫禄はないのだが、ファストファッションに傾倒している最近のファッションビルとは歴史が違う。  入口から一歩中に足を踏み入れるのに、異常なほど緊張していた。お客として入るのと、仕事で入るのとでは気持ちがまったく違う。  高級ブランドのフロアを抜けて、インフォメーションまで来ると受付嬢が丁寧に対応をしてくれる。落ち着け落ち着けと内心で自分をなだめながら、高鳴っている心臓に手を当てる。 「大丈夫かい、今村くん?」 「けっこう緊張しますね……大きい仕事になりそうで」 「そうだね。シビアな内容になるとは思うよ。でもきっと、良い経験になるはずだよ」  それにみちるはうなずく。デパートの下調べは充分に済ませた。あとは打ち合わせを重ねて、要望をデザインに入れていかなくてはならない。  どんなディスプレイになるだろうと気持ちがワクワクし始めたところで、パリッとしたスーツを着こなした上背のある男性が歩いてやって来る。社長が、立ち上がったので、みちるも並んで立ち上がって、そして目を見開いた。 「え……」  思わず口から出た声は、社長の耳にばっちり届いてしまった。みちるの心臓が、別の意味でバクバクと轟音を鳴り響かせる。 「どうしたの、今村くん?」 「あ、いや……なんでもないです」  奥から現れあた男性は丁寧な仕草でお辞儀をする。みちるも社長も深々と頭を下げた。  顔を上げてにっこりとほほ笑む穏やかな男性の表情に、みちるはなんだか苦い気持ちが広がる。 「初めまして。本日は、ご足労いただき誠にありがとうございます。ミーティングルームへとご案内いたしますので」 (――初めまして、ねえ)  みちるはスリーピーススーツを嫌味なく着こなす後ろ姿に向かって、ほんの少しだけ眉毛を上げる。  社長と一緒に先を行く人物は、先日カクテルをごちそうになり、ついでに別れ際にさりげないキスをお見舞いしてきた張本人、大橋博嗣だった。
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