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端麗な別れ
数年ぶりに出会った二人は向かい合って静かに食事をしていた。会話が弾まないのではない。男の方が緊張してまともに言葉が出てきていないのだ。久しぶりに出会った彼女はあまりに綺麗になりすぎている。これでは気の利いた一言など出てこなくて当然だ。
しかし、思い返してみれば共に学園生活を送っていた頃も大して会話などしていなかった。二人は仲を深めるほどに会話というものをしなくなり、卒業間近などはぎこちなく言の葉を交わすだけになっていた。
それでも互いが互いの良い理解者であった。
「私たちがこうしてお酒を飲んでるなんて、君と会ったばかりの私に言ったらびっくりしちゃうだろうなあ」
目の前にいる女がそう口を開く。
「ああ……うん」
男はまともに言葉を返せない。緊張している、それもあるが、彼女と出会ったばかりの時、自分は嫌われていたという自覚があるから言葉が出てこない。
二人の出会いは決して良いものではなかった。
男は当時のことを思い返すと穴があったら入りたい気分になるのだが、その程度には天狗だった自覚がある。
というのも、男は『物事が上手くいってしまう』という性質を持っていたのである。幼い頃から何事も苦労せずにやり遂げてしまい、周囲の人間はそれを称え、加えて容姿端麗であったために好意も向けられた。大抵のことは都合の良いように運んだため、男は『自分の好きなようにしていれば思うように事は運ぶ』という大いなる勘違いを抱いたまま女に出会ったのである。
当然、女にとって大いなる勘違い野郎と出くわした時の第一印象は最悪だった。それだけならまだしも、男には努力一つでのし上がってきた女に匹敵する才能があったのだ。軽薄な態度で築き上げてきたものを軽々と越えていく男に腹が立たないわけがない。
女は男を嫌っていたし、男は女に対して無関心であった。
それがどうしても関わらなければならない事態になってしまった。
彼らが通っていたのは演劇の学び舎。そこで二人が主役級に抜擢されてしまったのだ。主役を共に演じる以上会話をしないわけにはいかない。二人は初めて関わり合った。
そして、その時、天狗の鼻柱が折れた。女に激昂されたのである。
当然、男が怒られたのはこれが初めてではないが、衝撃を受けたのはこれが初めてだった。男にはわからなかった。なぜ目の前の彼女はここまで必死なのか。そして知りたいと願った。男に初めて人への興味が芽生えた瞬間だった。
「あの時はこんなに仲良くなるなんて思ってなかったもん」
そう言って彼女は煮魚を口に運ぶ。
「……俺は、仲良くしたかったけど」
「よく言うよ。私に興味なんかなかったくせに」
いたずらっぽい笑みでそう言われてしまっては返す言葉もない。男は誤魔化すように白米を口に運ぶ。
「実際さ、君はどうして私と話そうと思ったの? それだけわからない」
彼女はその目に純粋な疑問を宿して男を見つめる。その視線に耐えかねて目を逸らして言う。
「言ったら怒る」
「あの頃もう充分怒ったよ」
女は少しの迷いもなく言い放つ。男に逃げ場はない。少しの躊躇いの後、言葉を吐いた。
「……理解できなかったから。どうしてそんなに頑張るのか」
「ああ、そういえば言ってたね。うん。そっか」
女は納得したように白米を頬張る。
実際に彼女があの頃言われたのは『どうしてそんなに必死なのか』という失礼さを二割増しにした言葉であり、実際彼女は怒った。しかし、問いには答えた。その時初めて男の中に真摯さを見たからだ。『私が選んだ道で、そういう家だから、やるしかないってだけ』と。
男はその時の憂いを帯びた視線をよく覚えている。その表情が興味を止められないものにした。
それから二人は行動を共にするようになった。女としては迷惑で仕方なかったが、主役級を演じる者同士としては多少都合が良かったので、男のことはそういう背景として認識していた。
「……そういえば、頼りになる人はできた?」
女は酒を口に含んでそう問いかける。
「……まあ、なんとか。友達くらいは」
「……そう、良かった」
それは二人の悲しい共通項だった。
女にとってただひたすらに鬱陶しい男への評価が変わったのがその共通項の存在である。
ある日のこと、女が妹を、男が兄を演じる演目において、妹が兄に秘密を打ち明けるシーンがあり、女はどうしてもその心情を追えなかった。だから兄としてはどういう心境なのかと問いかけたところ、男に言われたのだ。『よく分からない』と。『頼りになる人なんているの?』と。
そこから女は気づいてしまった。共通項があることに。そして今まで誰にも気づかれさえしなかったそれを共有できる相手ができてしまったことに。そこから少なからず好ましい感情が生まれてしまったことに。
それ以来、女の中にも男を理解しようという感情が芽生えた。そして分かってしまった。彼が誰にも理解されずにそこまできたことを。妬まれれば当然傷がつくというのに、それを才が癒してくれるという勘違いをされたまま生きてきたことを。
それが分かって以来、女は男の良き理解者となった。また、男も真面目すぎる彼女をよく慰めた。
誰もが二人は恋仲なのだと思っていたが、実際はそうはならなかった。
二人は互いを信頼していた。歯に衣着せぬ物言いができた。だからこそ本心を打ち明けられなかった。それを言ってしまえば演技ではないのだと分かってしまうからだ。彼らは何度舞台上で愛を叫ぼうとも現実世界ではそれをしなかった。それは卒業公演を終えた後も同じだった。
「あ、今更だけどありがとうね、公演来てくれて。でも来るなら連絡くらいしてくれれば良かったのに」
「急に同僚がチケットくれたんだよ。連絡ならしただろ。公演の後に」
「まあね。じゃないとこうしてないけど」
男が数年ぶりに見たのは舞台上で嶄全頭角を現す彼女の姿であった。綺羅を飾った衣装も目には入らず、男は夢中で彼女のことを追っていた。そしていてもたってもいられず、ずっと使っていなかった番号に連絡を入れ今にいたる。
「……私はさ」
彼女は独り言のように言う。
「このまま私の理想とする女優を目指すよ」
「……そう。頑張って」
男にはそれしか言えなかった。
食事が進み、甘味が届く頃になると彼女がこう切り出した。
「ねえ」
「ん?」
「好きな人とかいる?」
男は寸刻迷った後に嘘をついた。
「いない」
「そっか」
女は問いかけた割にはあっさりと引き下がり、いつかのような憂いを帯びた表情をして言う。
「たまに羨ましくなるんだよね、普通に恋愛できる人のことが。私はしばらくはダメそうだから」
今日会うことが決まった時も、男は所謂芸能人御用達の店に呼ばれ、時間差で入店するように指示されていた。普通に恋愛できないとは、そういうことなのだろう。
「……まあ、俺も普通にはできないから」
思わずそう言ってしまったのだが
「好きな人いないんじゃなかったの?」
失言だった。彼女は意地悪な笑みを浮かべている。
問うに落ちずに語るに落ちるとはまさにこのことだった。咄嗟に言い逃れようとしたが、何一つ言葉が出てこない。男は降参の意思を示すように深く目を瞑った。
瞼の裏を見続ける男に、女はこう声をかける。
「私はね、いるよ。好きな人」
男は目を開いた。見開かないよう細心の注意を払いながら。
女はしっかり男の眼を見ながら言った。
「でもきっと、一生結ばれることはないの」
女の視線は心を射抜き、傷をつけた。
「……一生ってことはないだろ」
「ううん。一生だよ。きっと」
女はどこか遠くを見ながら男に告げる。
「私が女優を志す限り、ずっと。そのくらいの覚悟でないと、私はとてもやっていけない」
その言葉を聞いて男はとつおいつ考えた。何を言うべきかと。いっそ打ち明けてしまったほうが良いのではと。けれどそう迷っている間に時は過ぎてしまった。
「そろそろ帰ろうか」
男にはそれを引き留める術がなかった。
「今日はありがとう」
そうありきたりなことを言うのが精一杯だった。
「こちらこそ。久しぶりに会えて嬉しかった」
そういう彼女は女優の表情をしている。
咄嗟に言葉が零れそうになったが、男はそれを堪えた。代わりの言葉を紡ぐ。
「理想の女優になれるといいな」
彼女は綺麗すぎる笑顔で言う。
「ありがとう。君が応援してくれてるってこと忘れない」
その言葉を最後に二人は別れた。
その一見端麗な別れ際が生木を裂くようなものであったことを当人たちだけが知っている。
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