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たからもの
本当の恐怖に直面した時、人は声が出せなくなるらしい。今の僕が、それだった。
「たすけて……」
部屋の奥で聞こえる、少女の声。
叫びたいのに声が出ない。体は完全に硬直し、心臓は激しく警鐘を鳴らしていた。
恐怖で、逃げることしか考えられなくなる。でも、自分が入ってきた扉の位置もわからない。
これは、ギブアップするしかない。
そう思い、防犯ブザーに手をかけた時、僕はなぜか心に引っかかりを感じた。
……「助けて」と言っている。
正体はわからないけれど、誰かが助けを求めている。このまま逃げ出していいのだろうか。
声のした方を見つめた。
僕は勇気を振り絞り、声を出す。
「……誰か、いるの?」
しばらく、闇が沈黙を守っていた。
再び口を開きかけた時、その声は聞こえた。
「いる……よ……。たすけ……」
僕は確信した。これは、僕が思っていた「怖いもの」なんかじゃない。
「どうしたの?」
少しの沈黙の後、少女の声が答えた。
「外へ……光の中へ行くことが……怖い……。でも、ひとりも……寂しい……」
僕の中から、恐怖は消えていた。声のする方へ、物を搔き分けながら這っていく。
やがて僕の手が、今までとは違う柔らかいものに触れた。
「ヒッ……」
少女が小さく悲鳴をあげる。
「ごめん。大丈夫? なんでこんなところにいるの?」
「明るい場所が怖いの……。見られたくないから……」
「何を?」
「この顔を……見られたくない……」
姿は見えないが、声から彼女が震えていることがわかる。
「どうして顔を見られたくないの?」
「だって、醜いから……。顔に傷があるから……」
「傷……?」
「小さい時、事故で……。学校で、男子に『ブス』、『気持ち悪い』ってずっといじめられてきて……」
「酷い……」
「人前に出ることが怖くなったの……。もうずっと、この部屋にいるの。外は怖い……」
暗闇の中、少女のすすり泣きだけが聞こえる。
「悲しい……」
彼女がふと漏らしたその言葉に、僕はハッとした。
僕はこの少女に、普段の自分自身を重ね合わせていた。
「キモい」、「消えろ」。そんな残酷な言葉を、平気で浴びせるアイツら。
僕は、慣れてしまっていたはずだった。
ただアイツが怖くて、従うことしか頭になくて、「悔しい」とか「悲しい」とか、そんな感情をどこかに置き去りにしてきた気がする。
いや、感じないようにしていた。
彼らが自分に向ける悪意を、全てまともに受け止めてしまったら、心が壊れてしまいそうだった。
「仕方ない」、「ただ耐えていればいい」。
いつしか悲しむことすらも放棄し、何もかも諦めていた自分。
そんな僕に、地獄から抜け出すチャンスがやってきた。
僕はこれ以上、自分が傷つかないために、ここへやってきたんだ。
でもさっきまで、目の前の状況からいとも簡単に逃げだそうとしていた。
――僕は弱い。いつだって、逃げることしか考えていない。
でもこの少女は、こんなにも素直に「悲しい」と口にした。出会ったばかりの僕に……。
気がつくと僕は、少女の小さな手を取っていた。感触から、彼女が驚いていることが伝わってくる。
「一緒に、外へ出よう」
僕は、この気持ちが伝わればと願い、手に力を込めた。
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