3.その男、本職につき

57/58
前へ
/97ページ
次へ
 上京してからというもの、彼女もいなかった宮古にとって、一人暮らしの相手と鍵のやり取りをするのはこれが初体験だった。  これが噂の合い鍵。鍵ではなくカードキーで、さらに暗証番号付きと、初手からハイクラス過ぎるけれど。  ポメりそうなときはすぐ呼んでと、渡の願いをそう言って受け入れたのは宮古だ。男に二言はない。受け取るのが筋だ。  だがしかし、相手方の渡という素材が良過ぎるのがいけないのか、さながらドラマのワンシーンにしか思えず、辛うじて「は、ハイ……」と裏返った返事しかできなかった。一挙手一投足の完成度が尋常じゃない。ついついカメラを探しそうになる。 「じゃあ、また後でね。ほたる」 「っわ、かり、ました。……八千代、さん?」  呼んだ方がいいのかな、と思って、呼んで。チラリと、渡の顔を伺った。  瞬間、呼吸が停止した。 (ーーーーう 、わ、)  氷が溶けたと謂うべきか、華がほころんだと謂うべきか。  渡は笑っていた。  くしゃりと、喜びをこらえきれなかったとばかりに、ひとみを輝かせて。  まるで噛み締めるように、はにかんでいた。  これは下手すると、無自覚の、無自重だ。  クル! と勢いよく背を向けて、宮古は逃走した。816号室を離れ、ちょうど止まっていたエレベーターへ駆け込み乗車した。敵前逃亡など四の五の言ってられない。前提として渡は敵ではないのだけれど、なにせ宮古の命がかかっている。  たどり着いた602号室の前で、へなへなと座り込んだ。  渡と共有したスポーツドリンク。渡が交渉の末に譲り受けたスペアキー。渡の自宅のカードキー。いずれ渡のマンションの暗証番号が送られるであろう携帯。そしてルームウェアに移った残り香。今宮古が持つものすべてに渡の痕跡を見つけて、不整脈が止まらない。  渡八千代は決して、ばけものではない。  ばけものではないけれど。 「………いつか、殺されそうだ」  宮古の世界の中心に、その男は突然現れた。  まるでおとぎ話のような、ウソみたいなホントのはなしと共に。  ふと、思う。  ───もしかすると自分は、とんでもないポメを、助けてしまったんじゃなかろうか。    
/97ページ

最初のコメントを投稿しよう!

764人が本棚に入れています
本棚に追加