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上京してからというもの、彼女もいなかった宮古にとって、一人暮らしの相手と鍵のやり取りをするのはこれが初体験だった。
これが噂の合い鍵。鍵ではなくカードキーで、さらに暗証番号付きと、初手からハイクラス過ぎるけれど。
ポメりそうなときはすぐ呼んでと、渡の願いをそう言って受け入れたのは宮古だ。男に二言はない。受け取るのが筋だ。
だがしかし、相手方の渡という素材が良過ぎるのがいけないのか、さながらドラマのワンシーンにしか思えず、辛うじて「は、ハイ……」と裏返った返事しかできなかった。一挙手一投足の完成度が尋常じゃない。ついついカメラを探しそうになる。
「じゃあ、また後でね。ほたる」
「っわ、かり、ました。……八千代、さん?」
呼んだ方がいいのかな、と思って、呼んで。チラリと、渡の顔を伺った。
瞬間、呼吸が停止した。
(ーーーーう 、わ、)
氷が溶けたと謂うべきか、華がほころんだと謂うべきか。
渡は笑っていた。
くしゃりと、喜びをこらえきれなかったとばかりに、ひとみを輝かせて。
まるで噛み締めるように、はにかんでいた。
これは下手すると、無自覚の、無自重だ。
クル! と勢いよく背を向けて、宮古は逃走した。816号室を離れ、ちょうど止まっていたエレベーターへ駆け込み乗車した。敵前逃亡など四の五の言ってられない。前提として渡は敵ではないのだけれど、なにせ宮古の命がかかっている。
たどり着いた602号室の前で、へなへなと座り込んだ。
渡と共有したスポーツドリンク。渡が交渉の末に譲り受けたスペアキー。渡の自宅のカードキー。いずれ渡のマンションの暗証番号が送られるであろう携帯。そしてルームウェアに移った残り香。今宮古が持つものすべてに渡の痕跡を見つけて、不整脈が止まらない。
渡八千代は決して、ばけものではない。
ばけものではないけれど。
「………いつか、殺されそうだ」
宮古の世界の中心に、その男は突然現れた。
まるでおとぎ話のような、ウソみたいなホントのはなしと共に。
ふと、思う。
───もしかすると自分は、とんでもないポメを、助けてしまったんじゃなかろうか。
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