自由の箱庭

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 本を読んでいる。    本を読んで。  本を読んで。  本を読み終わる。  また最初から読み始める。  抜け殻となった私にとって、本を延々と読み続けるのは苦ではなかった。  ページをめくれば、前のページの話なんて忘れてしまっていたから。  壁にかけられた埃を被っている制服が目に止まる。  あれだけ欲しかった制服が、今では終わった自分の人生を表しているようだ。 「…………」  私は学校に行かなくなった。  それから、毎日部屋にこもって本を眺める。  悲しみは感じる。  ただ、泣けはしなかった。  悲しみを感じるたびに、心にある虚無が肥大化し、いろんな感情を飲み込んでいく。  ただ、恐怖の感情だけは消えずにいた。 「アンタがいたから!! 私はこんなことになったのよ!!!」  私と同じように荒んでいった母は、毎日ように私を怒鳴りつける。  その度に殴られ、蹴られ。  食事をひっくり返された日の夜は空腹に耐えながら寝る。  自分が、死とは別の最悪を迎えてしまいそうで怖かった。    そんなある日の夜。  横になって寝ていた私は、物音に気づき目を覚ました。  寝ぼけながらも視界に映った光景に、私は少なからずも恐怖した。  目の前には恐ろしい形相で包丁を握っていた母がいたのだった。 「お母……さん……?」  虚ろった母の瞳と目が合った時、全身を貫く激しい悪寒が私を襲った。   「お母さん!?」  包丁を振り落とそうとする母をほぼ反射的に押しのけ、腰が抜けた体を力ずくで立たせる。  暗くて輪郭のはっきりしない母がゆっくり立ち上がるのが感じ取れた。 「お母さん! やめてよ!」  心臓の鼓動が高まり、息が荒くなるのを抑えきれない。 「なんでこんなことするの!? なんでこれ以上私を苦しめるの!!」  久々に声を発して、喉が痛い。  でも、それ以上に胸が痛かった。  どれだけ殴られても、母は私のことを愛してると心のどこかで思っていた。  それなのに…… 「ずっと信じてたのに! お母さん!」 「やめて!!」  私の怒鳴る声を、母の悲しげな声が遮った。 「おかあ……」 「もう私をお母さんって呼ばないでっ!!」  段々と視界が明瞭になっていく。  そして、暗闇に慣れてきた私の目が見たのは、震える手で包丁を握りながら泣いている母だった。 「アンタを見てると死にたくなるんだよ! あの男との間にできたアンタを見る度に苦しくなる!!」  母の悲鳴に近い怒鳴り声がタバコ臭い壁に染み込む。 「それなのに、アンタは私に近寄って! 愛を求めて! 私の気持ちなんて知らないくせにィ!!」  母はそう言うと、その場に崩れてた。   「もう私に思い出させないでよ! 私の目の前から消えて!!」  母の悲痛な叫びが、今までにないぐらい私を突き刺した。  私はこれ以上を求める母を理解できなかったが、結局は私も今以上の母の愛を求めていた。  結果、それがどれだけ母を苦しめていたかも知らずに。  母を今まで苦しめていた罪悪感と、同時に私を完全に否定された悲しみが、骨の髄まで響く。 「ううぅ……」    嗚咽を漏らす母が、ものすごく可哀想に見えた。  でも、また私が母に寄り添えば苦しめてしまう。今まで知らず知らずのうちにしてきたように。 「…………っ」  ただ、黙って泣くしかなかった。  泣いて。  泣いて。  自分だけを慰めて。  自分だけを楽にして。  こんな独りよがりな私だから、みんなは私を求めなかったのかな?  気づくと朝になっていた。  母は死んだように寝ている。 『私の目の前から消えて!』  母の言葉を思い出した。  きっと、母のためにできることなんてこのぐらいしかないのかもしれない。  眠る母の横を抜けて、玄関の扉を開けた。  振り返らない。  この部屋なんて二度と見たくないから。  それから階段を駆け降りて、あてもなくただ走った。  知ってる道を走って、でも、そのうち知らない道を走ることになる。  途中、同じクラスだった子とすれ違った。  私は気づいたが、向こうは気づかずにすれ違う。  当然、私のことなんて知らない。  私はみんなに求められなかったから。  改めて痛感する現実にまた涙を零した。    息が切れているのも忘れて、ただただ走り続けた。  それから成り行きで駅にいき、電車に乗る。  ポケットに入っていた最後のお小遣いは全て使い果たした。  見ず知らずに地について、また走って。  やがて、私は山を目指していることに気づいた。  何度も読んだ本。  ただ一つの文だけ覚えてる。 『自然は人を選ばない。自然は人を包み込む』  私を求めてくれるなら誰でもよかった。  話し相手が欲しかった。  どれだけ意地悪で、乱暴者で、私を泣かせるような人でも。常に私と話してくれる人なら良かった。  思えば、それはしょうもない私の欲望だった。  山の麓に着き、険しい山道を登る。  道など整備されてなどいない、獣道すらない山を進む。  昨晩降った小雨のせいで滑って、汚れて、擦りむいて。それでも足を止めない。  最早自分の意思ではなく、自然の強大な力に引き込まれるように進む。  私はここで死ぬのかもしれない。  それはそれで良いかもしれない。  ただ、また誰かと話せるなら。  誰でも良い。  女でも男でも。  怪物でも妖怪でも。  それがたとえ誘拐犯だったとしても。      
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