古刹

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 二両編成の列車が緊急停止してから十分ほど経った。  楠宝子(なおこ)はレトロなボックス席の窓際で、草木の覆い茂る山の斜面をぼんやりと眺めていた。  隣の麻津子は柿の種をつまみながら缶ビールを傾けている。  同車両の他の乗客は二人以外、通路を挟んだ斜め前席で読書している後姿の男しか見当たらなかった。  麻津子が柿の種の袋を差し出す。楠宝子は無言で首を横に振った。  二人は麻津子の生まれ故郷、薪乃(まきの)町に向かっている途中だった。近隣の町々と合併し市にはなったが、山々に囲まれた町はまだ村と呼んでもおかしくないほどの田舎らしい。  退屈した楠宝子は小さなあくびをして隣の車両を窺った。向こうの乗客もちらほらで、自分たちと同様、突然の停止にクレームを付けている者はいなかった。 「この線、たまにシカやイノシシが接触する時あるのよ。先の列車に跳ねられて死骸が線路上に横たわってたりとかもね――だからこうやって突然停まるの」  三本目の缶ビールを開けた麻津子が珍しいことではないふうに説明する。 「へえ、そうなんですね」  麻津子の言葉が聞こえたのか、楠宝子が返事するより先に斜め前の男が反応し、窓を開け外に顔を出した。 「ここからは見えませんね」  と笑って二人を振り返る。 「あらいい男」  麻津子の目が輝いた。  まさにギリシャ彫刻のような端正な顔立ちで、額にかかる柔らかにカールした黒髪も美しい。背が高く胸板も厚く、長い四肢にしなやかな手指も何から何まで感嘆のため息をつきたくなるような男だった。 「こんな田舎ではお目にかかれない美形ね。お仕事で?」  麻津子が身を乗り出し、楠宝子が知る一番いい笑顔を浮かべる。  品良く仕立てられたスーツに身を包む男はどう見ても都会者だ。好奇心旺盛な麻津子でなくても気になるだろう。 「いえ、仕事ではないのですが――  次の駅の薪乃町に我が家のルーツがあるらしく、一度行ってみたくて」 「ああなるほど――」  麻津子は四本目の缶を開け、ぐびりと一口飲んだ。  男性の前ではしたないと思いつつも、そんなことにお構いなしの部分が彼女の良き面でもあると楠宝子は黙っていた。 「そっちに行ってもよろしいですか?」  こっちの返事を待たず、男はバッグを持って麻津子に向かい合う形で座った。  ふわりといい香りが漂ってくる。不愉快ではないお香系の香りは匂い袋のようなものかもしれないと何となく思いながら、楠宝子は男を注意深く眺めた。  匂いといい、人懐こそうな少しだけ垂れた目といい、好感しか持てない。  自分の不躾な視線をものともせず、座り心地を安定させると男は二人に微笑んだ。 「わたしも薪乃町出身なの――でも長い間帰ってないんだけどね――」  そう言って麻津子が軽くげっぷをし「友達が行きたいっていうもんだからさ」と楠宝子を指さした。 「へえそうだったんですか。  あ、僕、玉木と言います。玉木聖夫(きよお)です」  そう言いながら、美女の粗相に軽く笑って内ポケットを探っていたが「しまったなあ――名刺入れを忘れて来たみたいだ」と笑った。 「別にいいわよ。わたしたちも持ってないから。  私は田村麻津子で、こっちは波頭(はとう)楠宝子」  麻津子の指先を玉木の視線が追いかけ目が合った。  軽く会釈すると玉木が破願する。 「波頭さんが行きたいっていうくらい有名なものでも何かあるんですか?」 「何もないわよぉ、ただの寂れた田舎町。  彼女、怪異譚を取材してまとめててね、で、わたしが話した薪乃町の伝承に興味を――」 「ちょっと、そんなこと簡単に人に言わないでよ。ただの変わった趣味なんだから」  楠宝子は麻津子の脇腹を肘で突いた。 「いいじゃないですか。僕も好きですよ。伝奇、伝承とか――実は僕もルーツだけじゃなく、町の伝承にも興味を持ったんで――」  玉木の言葉に「あら、じゃわたしたちと一緒ね」と麻津子が笑う。だが、楠宝子は首を傾げた。 「薪乃町って、いくつかの村が合併してできた薪乃村っていうのが前身だって麻津子言ってたよね。玉木さんの知る伝承って麻津子のと同じなのかしら? もし玉木さんと麻津子のルーツが違う村だったら、各村で話が違うかも――」 「まあいやだ、この娘ったら。もしそうだとしたら、あわよくば二つの伝承を手に入れるつもり?」  その時、車内アナウンスが流れてきた。  やはり野生動物の死骸を車輪に巻き込んだという内容で、しばらく発車できないという報告だ。処理と安全確認に時間がかかるという。  三人三様の表情でそれを聞き、その後視線を合わせた。 「ねえ、玉木さん、待ち時間の間あなたの知る伝承をお聞かせ願えません? 同じだったらそれはそれで構いませんし――」  楠宝子が切り出すと、 「もう、この娘ったら。厚かましくてすみませんねぇ」  五本目のビール缶を開け、麻津子が笑う。 「いえ、大丈夫ですよ――ではお話ししましょうか――」  玉木は微笑んで楠宝子と麻津子の顔を交互に見遣り、話を始めた。 「小学――何年生の頃だったでしょうか。  当時僕は隣県に住んでいました。宿題で自分の生い立ちを調べるというものがありまして、今まで両親から一度もそのような話を聞いたことがなかったので、僕は興味津々で父親に話を訊きました。  ですが、父親はW県の薪乃村が玉木家のルーツだといった後、口走ってしまったというような表情で言葉を濁しました。  結局その話はなかったことにされ、僕の生い立ちをただ普通に聞かせてくれて宿題は無事済みました。僕はそのまま薪乃村という名前は忘れてしまいました。  それが半年前、両親が事故で亡くなりまして――  僕はとうに家を出て一人暮らしをしていたので、葬儀などもろもろのことを済ませてから実家の片づけに入りました。  それで父の本棚の奥にある文献――薄汚れた紐とじのもの――を見つけました。  表紙には『山北村(現薪乃村)伝承』と筆書きで書かれてあって、僕は小学生の時に聞いた地名を思い出しました。筆跡は父のものではありませんでした。祖父か曽祖父のものなのか、それ以前の誰かのものなのか、父亡き今は何もわかりません。親戚もいないようだから誰かに訊くということも叶いません。  まあ誰が書いたとしても玉木の家にあるものなのですから、処分を決めるのは僕です。とにかく読んでみようとページを繰りました。  さっきおっしゃってましたね、薪乃村はいくつかの村が合併してできた町だって。  その通り文献の最初に書かれていました。  薪乃村は、もとは何百年も前に深い山々に囲まれ、山を挟んで存在した山北、山中、山南という三つの村だったと。  そして、山北村に起こった事件の顛末が伝承として綴られていました。  文章は村にある古いお寺のことから始まっていました。  長年村人たちに慕われた住職が老衰で亡くなり、町の大きな寺から新しいお坊様が派遣され速やかに次住職に就いたと――  まだ三十代の若さでありながらそのお坊様は大変な修行を積んで徳を得た上、非常に心優しいお方で、村長はじめ村人一同、寺の存続に胸をなでおろしたそうです――                  *  山北村の村長(むらおさ)、辰三はひどく感心していた。  清心という名の新住職は知性と品性を兼ね揃えながら、こんな山深い辺鄙な村の古寺に派遣されても愚痴一つこぼさなかったからだ。  心優しく、無知で朴訥な村人に高慢な態度をとることもなく、先の住職同様みなに慕われてすぐ村に馴染んだ清心に頼もしさも感じていた。  物質的に豊かな村ではなかったが、清心を中心に辰三の下、村人全員が心豊かに仲良く日々生活を営んでいた。  だが三か月が過ぎた頃、そんな平和な日々に突然悲劇が起こった。  山菜取りの娘が山中で何者かに襲われ殺されたのだ。  報告を受け駆け付けた辰三はそのひどい有様に目を覆った。  あきらかに熊や狼の仕業ではない。辱めを受け、無残な姿を晒されていたからだ。両脚は股関節から外されてまっすぐ横に開かれ、哀れに引き裂かれた股間は尻にまで達した大きな裂け目となり大量の血と擦り剥がされた娘自身の肉片にまみれていたという。  悲鳴を上げさせないためか、顔面も――特に口元がひどく潰されていた。  凄惨な暴力を受けながら犯された娘の味わった激痛や恐怖、悲しみや苦しみを思うと辰三はやりきれなかった。  村人たちはすぐさま娘の亡骸を寺に運び込み、清心に弔いを願った。  清心は惨たらしい亡骸を見てショックを受け、一瞬そのか細い身体をふらつかせた。辰三に支えられて気を取り直すと涙を流しながら娘のために読経を始めた。  娘の両親の嘆き悲しみはいかほどだったか、もうすぐ夫婦になる予定の平吉とともに三人で上げる慟哭で辰三の心は痛んだ。  辰三が心を痛めたのはそれだけではなかった。  人でなしはいったい誰なのか――もし村人の仕業ならその者を糾弾せねばならない。  村長として被害者と加害者のどちらに対しても責任を感じた辰三は腕組みをして唸った。  我がことのように感じ項垂れていた村人たちの悲しみは徐々に怒りに変わり始めた。 「やったんは誰やっ」  平吉が叫んだのを皮切りにみな怒鳴り合いながらお互いを見遣る。 「権治や。こんなことやれんの権治しかおらん」  別の誰かがそう叫ぶと視線が後方にいた権治に集まった。 「わ、わしやない」 「そやけどおまえ、よう鶏の股裂いてさばいとるやないか」 「そやそや、そないな力あんのお前くらいなもんやで」 「鶏裂いても人らよう裂かん」 「けどこいつ、こないだ女欲しいゆうてたで」  そこにいる全員が権治を睨みつけた。 「黙らんかっ」  辰三は不穏な空気を吹き飛ばすように一喝し、 「こないなことするんは血も涙もね悪党だ。そんな残忍な人間はこの村におらんっ」  その言葉にみなの表情が緩み権治に詫びを入れ、今度は山賊の仕業か血の気の多い隣村の奴らに違いないといきり立った。  だが、近辺の山中に山賊が潜むなど、今まで聞いたことがない。  ということは隣村の誰か――  男たちは殴り込みの計画を始めた。 「お前らそんな慌てて動くでね。隣村の長は八七郎いうて人望あるやつやで、こないなことする輩おってなんも気づかんはずね。もちょっと待て。もし違たらえらいことなるで」  辰三は諫めたが、 「けど、この村やのうたらほかにおるか? 隣村の奴らしかおらんやないかっ」  日頃温厚な村人たちが食ってかかり、平吉も泣きながら胸ぐらをつかんできた。 「早よせんと人殺しが逃げるで。おれはミヨの仇取りたいんや」 「わかったで、手え放せ」  そこへ一人の少年が血相を変えて寺に駆け込んできた。 「畑でお姉が殺されとるっ」  一同顔を見合わせ一斉に飛び出した。  畑に駆け付けると少年の姉はミヨと同じように顔面を潰され股を裂かれ、血に濡れた局部をわざと晒すように畑の畝に広げられていた。  両親は変わり果てた娘の姿に膝がくずおれ、他の村人たちは再び戸板に亡骸を乗せて寺に運び込んだ。  たった今殺されたようだと辰三は思った。  ミヨの血は乾いていたが、この娘の血はまだ乾いていない。  やはりこの村の男衆ではない。今の今まで誰も欠けることなく自分の目前で話をしていたのだから。  ということは、やはり隣村の誰かがこの村に入り込んで悪さしているのか。八七郎の元にそんな輩などいるように思えないが――  辰三は眉間を揉んだ。  男たちはもう話し合いなどしていなかった無言で鋤や鍬、鎌などの農具をかき集めて寺に持ち寄り殴り込みの準備を始めている。  このまま許してもいいのか、本当に隣村の男なのか――いや、そもそもこれは人のなせる業か? こんな残忍で惨い仕打ちがただの人にやれるものか?  考え込む辰三を気にもかけず、村人たちは準備を着々と進めた。  どうすれば――  辰三は迷い、男たちに声すらかけられずにいたが、年頃の娘がいる喜平がいったんみなを止めた。 「殺った奴がまだ村におるかもしれんで。おれたちがここ離れたら女子供しか残らん。そこまた襲われでもしたらえらいこっちゃ。そやけ、おなご護りながら待伏せしたらええん違うか」  それを聞き、男たちはしばらくお互いの顔を見合わせ、それもそうだと納得し、手にした武器を置いた。  辰三は胸を撫で下ろした。  その日から、男衆全員で村の女たちを見守る日々が続いた。  だが、厳戒態勢を取っているにもかかわらず、喜平の娘を含め一人、また一人と若い女たちが白昼堂々、しかも少し目を離した隙に次々と顔を潰され、股を裂かれて犯され、殺害されていった。  どんな異変も見逃さまいと自らも見張りに立った辰三はまったく無能な自分に頭を抱えた。  村人たちの顔つきは以前の穏やかなものから程遠く険しい陰気なものに変わっていった。  次々と惨殺されていく娘たちに弔いの祈りを捧げ、読経を続ける清心は本堂に籠りきりだった。寝食を惜しみ一心不乱に拝み続ける細い住職の後姿がさらに細くなっていくのを辰三は食事の盆を運ぶたびに見つめていた。  いつ行っても先の盆の中が減っていることはなく、労いの声をかけ休息をとるよう訴えても読経を止めなかった。  辰三は少し開けた障子の隙間から清心の気高い背中に深々とお辞儀を返すしかできなかった。  事件はいっこうに解決しなかった。  生娘だけでなく、夫のいる女まで襲われ始め、しかも、警戒に警戒を重ねた昼間ではなく、夜中、夫の寝ているその横で犯され惨殺された。  仕事と見張りの両方に疲れ切っているとはいえ、横の妻が惨殺され、その血飛沫を浴びていても気づかぬということはありえない。  辰三はやはりこれは人ではなく、魔鬼の所業だと確信した。  そして老婆と子供以外の女たち――残った十八名――を集め、本堂で拝み続ける清心とともに庫裡の座敷で魔除けのための読経を提案した。もちろん一つにまとめて匿う意味も含んでいる。  夫たちは各家で何も知らず忍んで来る魔鬼を待って寝ずの番、すでに嫁や恋人を失った男たちは庫裡の周囲を厳重に警邏することにした。  憔悴しきっている清心が痩せさらばえた身に鞭打ちながら座敷に集まった女たちの前に立って激励し、再び本堂に戻って読経した。  だが――  その甲斐空しく、翌朝、女たちが全員無残な姿に変わり果てていた。庫裡周りを警邏していた男たちにまったく気付かれることなく。  みな気を抜かれたようにただ立ち尽くすばかりで、辰三は魔鬼に対する自分の甘さを痛感した。  本堂からふらふらと出て来た清心が血に塗れた座敷を覗き、腰を落とした。我が力が足りぬばかりにと涙を流しながら村人たちに土下座する。  辰三が駆け寄り、その体を起こす。  骸骨のように痩せさらばえた清心を案じて平吉らに寝間の用意を命じた辰三だったが、袈裟の袖を振り上げて清心に押しのけられた。 「おなごたちの弔いのために読経せねば」  立ち上がり本堂に戻ろうとする清心の気迫に負けた辰三はよろよろと廊下を進む住職に肩を貸そうとした。  だが、そのまま動けなくなってしまった。 「村長、どした? 腰いわしたか?」  横にいた権治に顔を覗かれ、眉をしかめてうなずいた。清心の身を平吉と権治に任せ、壁を支えに辰三は血みどろの座敷に戻った。自宅で寝ずの番をしていた夫たちが駆けつけ、異様な亡骸に変わり果てた妻の名を呼び慟哭している。その姿に辰三の頬にも涙が溢れた。 「すまん――わしのせいや――すまん」  辰三は壁にもたれたまま膝がくずおれ、流れ出した血で汚れる廊下に座り込んだ。  村に残った女は十数人の老婆たちと年端も行かない少女が二人だけになった。  犠牲はミヨから始まり全員で三十二名。  まさかおなごだからといって幼い子供にまで来ることはあるまい。そう思ったが、辰三は用心を重ね、みなで協力し、片時も少女たちから目を離さなかった。それが功を奏して二人は魔鬼に襲われることはなかった。  男たちは何とかして魔鬼を捕らえたいと策を練っていた。だが、辰三は犠牲者や遺族らには申し訳ないが、このまま惨劇が終われば、それでいいと願った。  数日後、隣村から八七郎の文を持って風太という少年が山北村にきた。  文には慌て乱れた文字で『女数人惨殺されし、注意せよ』と書きなぐられている。  恐れていたことが起きた。  辰三は頭を抱えた。  女のいないこの村に用はない。魔鬼の手は隣の山中村に伸びたのだ。ちょっと考えればわかることだったのに、我が村の悲劇に気を取られ過ぎていた。  さすがの八七郎だ。彼が伝えてきたように自分ももっと早く文を送るべきだった。そう悔やんだが後の祭りだ。  息も絶え絶えに山中を駆けて来た少年は風太と名乗り、平吉が出した水をすすりながら山中村での事件のあらましを語った。  まったくこの村と同じことが起きていた。  違ったのは五人目に襲われた娘が助けられたことだった。たまたまだったという。  一人の杣人が山中で悲鳴を聞きつけた。熊をも恐れぬ豪傑の、その男が駆けつけたところ、山菜取りの娘に黒い影が覆いかぶさっているのを見た。すでに四人、女を惨殺された後で、杣人は怒りに任せその影を殴りつけた。  すると影は咆哮を上げて霧散したという。  八七郎に語った杣人の話では一見影のようだったが触れた時、確かな実体があったそうだ。拳骨が当たった瞬間、非常に禍々しく気味の悪い感触が残ったと豪傑といわれる男が身を震わせ、顔形がどうであったか訊ねる八七郎に、真っ黒でわからなかったと首を横に振ったという。  襲われた娘は命を奪われるほどに至ってなかった。どう避けたのか、ひどく腫れていたものの顔面を潰されることもなく、股を裂かれかけてはいたが完全に引き裂かれる寸前で杣人に助けられたからだ。  だが、身を汚されてしまったのは確かで、恐怖と痛みと悲しみで気が触れてしまったのだと風太は泣いた。 「あとちょっとで嫁さんに行くとこやったのに――」  その涙を見て、襲われたのは風太の姉に違いないと辰三の胸が締め付けられた。  風太が身体を休めている間、この村で起こった事件の一部始終、早急に知らせなかった詫びなどをしたため、策を練る協力を頼んだ。  そして平吉を付き添わせ、文を託した風太を帰村させた。  返事を持った平吉が無事戻って二日後の夜。  旅途中の娘が辰三の家の扉を叩いた。  山中村に行くつもりが迷ったのだという。  裾を泥で汚していたが、この村にはない華やかな柄の着物を身にまとった華奢な娘が笠をはずして一夜の宿を請いながら深々と頭を下げた。  目を見張るような美しい娘だった。吸い込まれるような鳶色の瞳で見られると辰三は年甲斐もなく頬が火照るのを感じた。  今後の対策を練るため辰三の家に寄り合っていた男衆が我も我もと娘の立つ三和土を覗き込む。 「見苦しわ。奥へ入っとけ」  辰三がしっと手を振り、 「すまんの。今この村では若い娘が珍しいで」と苦笑いした。  奥に戻りもせず、男たちは娘を上から下まで眺めている。 「けど迷ってよかったで。あっちの村は魔鬼が出るで、こないな細っこいべっぴんさんらすぐ殺られてまうわ。な村長」  権治が言うと、 「そや、そや。ここにしばらくおったらええ」  男たちが口々に言ってはお互いの顔を見遣ってうなずき合った。 「この村も安全言えんやろ――  そや、寺に泊まったらええ」  辰三は手を叩いた。 「けど寺におっても、俺のかかあはやられたで」 「そや、そや」 「オレんとこもや」  男たちの涙に濡れた声が上がる。 「お前らよう聞け。  出るか出んかはわからん。そやけど、もし出たら今夜こそこの娘さん護って魔鬼を退治するんや。それが亡うなったもんへの弔いやっ」  辰三が一人ひとりの顔を力強く見つめると平吉や嘉平たち全員が深くうなずいた。  辰三はさっそく娘を寺に案内した。  老いも若きも村人たちが農具を武器にして後に続く。  寺に着くと辰三は清心のいる本堂の入り口から声をかけた。  清心はあれからもずっと読経をし続けていた。村人のたっての願いで水と少しの握り飯を口にして生きながらえている状態だ。  障子を開けた辰三は娘を横に座らせて理由を話し、庫裡の使用許可を願った。  痩せさらばえた清心が読経を止めて後ろを振り返り、不安げな眼差しを娘に向けた。 「皆で護りますんで」  辰三が力を込めた目でじっと見つめると、 「私も護りましょう」  そう言って清心は本尊に向き直り読経を再開した。  障子をそっと閉めると、後ろに控えていた平吉が耳打ちしてきた。 「さすが住職様や。きれいな娘っこ見ても眉一つ動かさね。修行積んだ方は違うな。おれ自分が恥ずかしいで」 「そだな」  辰三は相槌を打って目を伏せた。  庫裡の座敷に入ると住職の世話をしている婆が握り飯と寝間の準備をしてくれていた。 「ご苦労さん。婆はもう休んでくれ」  辰三の労いに「わしも見守るで」と鼻息を荒くする。 「お婆は足手まといにしかならん」  平吉に引っ張り出された不満の声が廊下を遠ざかっていく。 「ここで休んでくだせ。もし厠へ行きたかったら障子の外におるよって声かけてくだせ」  辰三は娘にそう言うと障子を閉めた。  深夜、庫裡の周囲に篝火を焚き、男衆は各々武器を手にして護りを固めていた。  住職の読経が静かに響く中、座敷に眠る娘のそばに影が現れた。気配を感じたのか娘が身じろぐも目は覚まさない。障子に映る篝火の仄かな明かりに浮かんだ影の下方で太い突起物が蛇のように頭をもたげた。  黒い魔鬼は布団を剥ぎ、有無を言わせない速さで娘の脚の間に怒張した下半身を滑り込ませようとし、同時に持ち上げた拳を娘の顔面に叩き込んだ。  だが、娘は首を振ってそれを避け、素早く脚を閉じて魔鬼の腰を挟み込んだ。敷布団の下から短刀を取り出し、胸のあたりを力いっぱい刺す。その身は煤状の粒子で形成されて見えるのに、なぜか刃は固いものを刺したかのように途中で止まった。  それでも魔鬼は木を擦り合わせたような軋んだ叫び声を上げ仰け反った。逃れようともがくも娘の脚にしっかりと挟まれ逃げることができない。 「ようようお目にかかれました」  辰三は潜んでいた座敷の暗がりからゆっくりと魔鬼の前に出た。  その声を聞き、魔鬼がさらに暴れもがく。  娘がさらに力を込めて締め付け、ようよう胸の短刀を根元まで押し込んだ。  大きな悲鳴を上げ動かなくなった魔鬼を仰向けに倒し、娘が馬乗りに抑え込む。  座敷に男衆が駆けつけ、明かりをかざした。  魔鬼は影と見紛うごとく黒かったが、隣村の豪傑が言った通りよく見ると確かに肉体があり、そして真っ黒い顔は醜く引き攣れ歪んではいたが清心のそれだった。 「やっぱり住職様でしたか」  その言葉に周囲の者はざわついた。 「そ、そやけどお経、聞こえてるで」  平吉の震え声にみな耳を澄ませる。  弱々しいが確かに経を読む住職の声がしていた。  誰に言われるでなく平吉と権治が本堂へと走り、倒けつ転びつしながらすぐ戻って来た。 「じ、住職、本尊の前でお経読んでた――」 「ならこれは――」  他の男たちが腑に落ちない表情を浮かべるも、 「まあ聞け、おれが名前呼んで肩触ろう思たら黒い煙みたいに揺れて消えたんや。  こらぁどういうことや、村長」 「清心様に取り憑いてたんや。立派な住職様がいつの間に――」  辰三は深いため息をつき、娘の尻に押さえられ息も絶え絶えな魔鬼を見下ろす。 「はじめっからや」  娘の声に一同驚きの表情を向けた。 「この村へ来た時から憑かれてたと?」  ただ一人、辰三だけが驚きもせず言葉を返す。 「違うよ。この坊主の生まれ持った性癖ってことや。  こいつ、子供の頃から女が好きで好きでたまらんかったんやろ。その淫心治そう思て出家したもんの、結局きつい修行しても治らんかったゆうことや。  坊主になったことで、逆に強なったゆうてもええな。  立派な坊さんや言われて辛抱した分、溜まりに溜まったもんが化けもんになったんや」  村人たちは髪を乱した娘をさらにまじまじと見つめた。 「お前、男か――」  平吉が気の抜けた声を上げる。  美しい娘の正体は少年だったのだ。  名を六生。年はまだ十二。八七郎の村に住む子で、視鬼人であり魔封気だと辰三は説明した。  八七郎に返信した時、辰三は我が村の住職、清心が怪しいと伝えた。  実は清心に肩を貸したあの時、懐から漂う血生臭いにおいに気付いた。そのようなにおいが身も心も清廉な住職からにおうはずがない。まさかと思いつつも衝撃を受けた辰三は、もしこのまま事が収まるならば、亡くなった者には申し訳ないが、それで構わないと静観することにした。住職が魔鬼だったという村人の受ける衝撃を見たくなかったからだ。  だが、自村だけでなく山中村でも事件が起きた。このままではいけない。魔鬼の正体を暴いて退治しなければ。辰三はそのために博識な八七郎に策の協力を頼んでいたのだ。  これはすべて八七郎の計画だった。 「今から根止めするで」  そう言うと、六生が刺したままの短刀を左右に捻り回して魔鬼の息の根を完全に止めた。  死んだ清心の身体は黒いままで元に戻ることはなかった。亡骸は寺の片隅に埋められ、六生の指示でその上に小さな鎮祠(ちんし)が建てられた。  その後、独り身の若い男たちは八七郎の計らいで山中村から嫁を娶り、山北村の子孫が絶えることはなかった。                  *  山北村の人たちはずっと祠を鎮守してきたのですが、ご多分に漏れず近代になるにつれて魔鬼の畏怖は薄れていきました。  山々が削られ土地が拡がり、山北、山中、そして山南の三村が合併され、一つの村になりました。  山北村があった場所は深い竹林と化し、鎮祠は廃寺となった寺の片隅に打ち捨てられたまま――事件はただの伝説になり、真実は関係した家系でのみ言い伝えで残りました。  そう、我が家に残っているのはそういうわけです。玉木家が当時関係者の末裔だと記されていました。  伝聞だったのがそのまま廃れるのを懸念したのか、祖父か曽祖父か――くわしくわかりませんが、先代の誰かが文書として書き残したのでしょうね。  ところで、いったい誰の末裔か? 村長の辰三? いいえ。権治でも嘉平でもありません。  平吉です。  平吉は山中村の風太と姉のキエを引き取りました。  キエは風太の言う通りまともではありませんでしたが、平吉は守れなかったミヨへの罪滅ぼしにと、キエを妻にし、護ることにしました。  ですが、キエが身籠っていたことで、平吉の運命は変わりました。実直な辰三の手前、誰も口には出しませんでしたが、子種は魔鬼のものではないかと疑い、村人たちは平吉一家を陰で村八分状態にしたのです。  平吉やキエたちが鬼籍に入って何代か後、村が薪乃村になった頃、村八分の家がついに出奔したというところで文書は終わりました。  文献はいわば我が家の歴史なのです」  玉木の長い話が終わった。 「真実はどうだったのかしらね? あ、キエの子供のことよ」  麻津子が訊くと玉木は「さあ」と曖昧に首を傾げ「文献にはない続きを聞きたいですか?」と楠宝子に笑顔を向けた。 「もちろんっ」  文献にはないのに続きを話すという違和感に気付かず楠宝子は喜び、玉木が満足げにうなずく。 「山北村にあった祠なんて、鎮守を放棄した時点で何の役にも立っていませんでした」 「それはどういう――」 「祠は魔鬼を鎮めるためのものです。何もしなければどうなるか一目瞭然でしょう?  実は出奔する時、玉木家の跡取り息子が竹藪と化した廃寺を訪れました。何のためなのかはわかりません。自分たちを苦しめた元凶にひと言物申したかったのか――」 「呼ばれた――とかね」  麻津子が空き缶を(もてあそ)びながら言葉を挟む。  玉木は麻津子を一瞥し微笑んだ。 「そうかも――ですね。その証拠にすでに目覚めていた魔鬼の意識がその跡取りに取り憑いたのですから。  ですが、魔封刀にやられた実体の再生にはまだ程遠く、代に代を重ね、ようやく身も心も元通りになりました」 「え? え? え? どういうこと?」  首を傾げる楠宝子に玉木が顔を近づけた。端正な顔に似合わない腐った肉のような口臭が鼻を衝く。 「僕がなぜ薪乃町に行きたかったのかわかりましたか? それは憎い敵がいるからです。  先を急ぎたいのですが、まだ列車も動きませんしねえ、目の前に二人も美女がいるのですから、据え膳食わぬはなんとやらですし――  さて、ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な」  言うが早いか、玉木の股間から坊主頭の人型がズボンを突き破って飛び出した。穏やかに目を閉じ合掌したそれは膨張し反り上がると両目を見開き楠宝子を見据えた。 「あなたにしましょう」  にたりと笑う玉木の口からよだれが糸を引いて落ちた。 「う、うそでしょ」  楠宝子は慌てて立ち上がり周囲を見回した。助けを求めるつもりだったが、車掌はおろか隣の車両にいたはずの乗客もいなくなっている。 「ど、どういうこと?」 「ちょっと楠宝ちゃん、落ち着きなさい」  動じることもなく微笑みさえ浮かべた麻津子に楠宝子はかっとなった。 「られるかっ」 「あんた、ここへ来た目的忘れてるでしょ」 「なにがっ――っていうか、これでよく落ち着いてられるわね。貞操の危機よっ」  怒張しながら迫る人型から身をかわし楠宝子は怒鳴った。この場から逃げ出したいが麻津子を置いていくわけにはいかない。 「あんたね、うちの家系の伝承を調べに来たんでしょ。わたしが今までずっと聞かせてやった話を思い出しなさいよ」  楠宝子は(くう)を見つめ、記憶を呼び起こす。 「あ、そういや麻津子んとこの先祖は山中村だったよね。結局村は違えど伝説は一緒――  はっ――」 「そっ、違いはあるのよ。こいつんとこは魔鬼の家系。うちんとこは六生の家系――」  そう言って麻津子が素早く玉木に抱きついた。 「では、お前が――」  二人の顔が向き合う。 「そうよ。わかってたんじゃないの? わたしはてっきりそうだとばかり――」  玉木の腹部に当てていた麻津子の右手が捻るように動く。  玉木が苦悶の表情を浮かべた。同時に坊主頭の人型が萎え縮みズボンの穴に戻る。 「そうかもな。わかっていたのかもしれな――」  そこまで言うと玉木の身体が黒い煙のようになって掻き消えた。 「うそつけっ。美女二人に目がくらんで気付いてなかったくせにっ」  麻津子が吐き捨てる。  楠宝子はへなへなと座席に腰を落とした。 「やったの?」 「やってないわよ。これだもの」  麻津子が右手を開くと煤状のものにまみれたプラスチック製のフォークが出て来た。コンビニのケーキについてくるあれだ。 「これが魔封刀だったらやれてたのに」 「持ってなかったの?」 「持ってるわけないじゃない短刀なんか。職質なんか受けたらヤバいでしょ。  それにしても祖父ちゃんから聞いてた話、本当だったのね。やつは甦ってるって――  これからはいつでも対処できるように魔封刀を隠し持っとかなきゃいけないわね。ああめんどくさい」  ぬるまった六本目の缶ビールを開けて一口飲み、麻津子が深いため息をついた。  運転再開を告げるアナウンスが車内に響き、見渡すと隣車両には乗客たちが戻っていた。  ゆっくりと列車が動き出す。  楠宝子は先ほどの恐怖をすっかり忘れ、この先起こるかもしれない怪異に胸躍らせた。自然とにやけてるのを抑えつつ、これからも麻津子にくっついていこうと固く心に決めた。
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