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「極めてまずい事態になった」
ミナ班長の顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいた。
班長のこの表情から察するに、どうやら事態は俺の予想以上に深刻らしい。
これまでにも、街中で危険古生物が暴れまわったことが無かったわけではない。
街中での戦闘は厄介だ。迂闊に銃火器を使うと逃げ遅れた一般市民を傷つけてしまいかねないし、全員の避難が完了した場所であっても、器物を損壊してしまうと後で苦情が来る。クレームをつけるなら俺達じゃなくて危険古生物を逃がした奴に言ってくれ、と言いたいところだが、元はと言えばそんな危険なものを売ったのはお前達NInGen社だろうと言われると、ぐうの音も出ない。
更に言えば、比較的小型の古生物の場合、建物内に逃げ込まれると探すのが一苦労になる。
そうした理由から市街戦というだけでも十分に厄介なのだが、それにしても班長のこの様子はただごとではなかった。
「またえらくひどい顔色ですけど、そこまでヤバいんですか? 市街地に危険古生物が逃げ出したってだけなら前にもありましたけど」
「現状が過去に例が無いほどまずい理由は、いくつかある。順を追って説明するが、まず一つ目は、今回市街地に危険生物が放たれた原因だ。いつものように無責任な飼い主が捨てたとか不注意により逃がしてしまったとかではない。原因は、生物を輸送していた車に対する襲撃だ」
「襲撃⁉」
ショックのあまり声が裏返る。これまでも反NInGen社活動家による嫌がらせや不法侵入などはあったが、そこまで暴力的な事態は初耳だ。
しかし、誰が、いったい何のために?
「さらに良くないことに、どうやら襲撃を行ったグループは例の猛虎班で、犯人の一人はイエナオらしい」
どういうことだ。事態がうまく飲み込めない。横を見ると、ツツジも困惑した顔をしている。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。イエナオさんは、この前のあの変な黒服達に捕まってるはずじゃないですか。それがなんで襲撃事件なんて起こせるんです?」
「どうやら一週間ほど前に逃亡していたらしい。これは、私も今日知らされたのだが」
逃亡?
俺は、あの時戦った長髪の男とその上司を思い出す。
カイセイと呼ばれていた長髪の男に対して、俺は手も足も出なかった。そしてそのカイセイを、ミナ班長がベルンシュタインと呼んでいた上司の男は言葉だけで怯ませていた。
あんな連中の本拠地から、そう簡単に逃亡することなどできるのだろうか? そんなぬるい相手には見えなかったが。
「それで、イエナオさんは今どこに? 捕まったんですか?」
「いや、襲撃後のごたごたの中、逃亡していて、現在どこにいるのかは不明だ。ただ、重傷を負っているのは間違いない。左手が落ちていたそうだからな」
「えー、落ちてたって、それつまり、手がまるまる切り落とされてたってことですかー?」
いつもと変わらない口調で問うツツジだが、さすがに顔は強張っていた。人間の手がぽつんと落ちているところを想像したのだろう。それに対して、班長は無言で頷く。
「誰がそんなことを」
「逃げ出した生物だよ。イエナオ達がどこからどんな情報を得ていたのかは知らないが、襲撃時にあの生物が逃げ出したことはあいつらにとっても想定外だったらしい。対処しきれず、襲撃犯六人のうち三人は死亡、二人はかろうじて息はあったものの重傷を負ってその場に倒れていた。ちなみに、その五人も猛虎班の構成員としてマークされていた人間だったそうだ。で、イエナオ一人が片手をちぎり取られつつも逃亡した。さすがにそこは、これまで危険古生物を相手にしてきた経験があった分、他の奴らよりはまだ対応できたんだろう」
既に五人もの死傷者が出ているとなると、その古生物の危険度が元々どう設定されていたにせよ、今回の一件だけでAランク入りは確実だろう。
「それで、さっき俺が撮影して班長に送ったやつ、あれがその逃げ出した危険古生物なんですよね? でもあれ、復活済み古生物のリストで見た覚えがまるでないんですが」
「あれは……あの生物は……」
班長は口籠もる。この様子だと、俺とは違い、まるで知らなかったというわけではなさそうだが、何をそんなに言い淀んでいるのか。
「それについては、私が説明する」
唐突に部屋の正面モニターが点くと、そこに一人の人物の姿が大映しにされた。
「母さ……いや、研究統括部長⁉」
モニターの方を振り返ったミナ班長が、ぎょっとした様子で裏返った声を出す。
その言葉通り、そこに映っていたのは、班長の実母でもあるハンナ・カウフマン研究統括部長だった。
カウフマン研究統括部長は娘の困惑には頓着せず、淡々とした様子でこちらに向かって語りかける。
「時間がもったいないので、説明に移らせてもらう。既に気づいていることと思うが、今回脱走した生物は、公式発表されている復活済み古生物リストには載せられていない。というよりは、そもそも実在した古生物ですらない」
「実在した古生物ではないってどういうことです? ここで行われている研究は、ヒトウドンコ病関係以外だとRRE法での古生物復活だけだと聞いていますが」
「この本社で行われているものについては、その通りだ。だが、今問題となっている生物は、こちらとは独立したチームが旧空港島の施設で作り出したものだ。もっとも、件の生物もRRE法と無関係というわけではない。言うなればあれは、RRE法の派生物のようなものだ」
旧空港島。
イエナオさんが語ったところによれば、そこにはサイトBと呼ばれる極秘研究施設があり、通常の危険古生物とは一線を画す〝特定危険古生物〟の研究が行われているとのことだった。あの話と、今回脱走した謎の生物はなにか関係があるのか。
俺はそうした内心の疑念が表情に出ないよう気をつけながら、カウフマン研究統括部長に問いかける。
「旧空港島はヒトウドンコ病エピデミック以来、閉鎖されてるって聞きましたけど」
「関係者以外立ち入り禁止になっているだけだ。使用されていないわけではない」
カウフマン研究統括部長の受け答えは堂々としており、後ろ暗いところがあるようには見えなかった。だが、あくまでも見えないだけだ。密かに生物兵器を開発しているような人間であれば、そうたやすく後ろ暗さを顔に出したりはしないだろう。
あるいは、先ほどの『こちらとは独立したチーム』という言葉が事実なら、この人自身には本当に後ろ暗いところが無いのかもしれないが。
「……話を戻しましょう。さっき派生物と言われましたが、それはつまり、どういうことなんです?」
「それについて説明することは可能だが、そのためにはまず君達がRRE法の原理を理解している必要がある。そのあたりは問題無いか?」
「ええと、現代の生物のゲノムと形態、それに化石に基づいて復元された古生物の形態を参考にして、古生物のゲノムを推測するとか、そのくらいのことは分かっていますが」
「私は何にも分かってないでーす」
このシリアスな雰囲気の中、前社長でもある研究統括部長相手に堂々とこんなことが言えるツツジはある意味大物である。横で聞いている俺の方がひやひやしたのだが、カウフマン研究統括部長は特に気を悪くした様子を見せなかった。というよりは、表情一つ動かさない。顔は娘であるミナ班長と似ているが、良くも悪くも表情豊かな班長とは大違いだ。正直言って、やりづらい。
「まずRRE法というのは、リバース&リ・エボリューション法の略だ。大雑把に言えば、さっきそこの彼が言ったように、現生生物のゲノムと形態ならびに古生物の形態から古生物のゲノムを推測する、というので間違いはない。ゲノムというのはいわば生物の設計図だ。それさえ手に入れば、古生物を復活させることは難しくない。重要なのは、どうやってその設計図を手に入れるかだ。既に絶滅した古生物も当然ながらゲノムを持ってはいたが、ゲノムはDNAという物質でできており、これは化石のように何千万年も壊れることなく残るほど安定な物ではない。しかし、古生物そのもののゲノムは残っていなくとも、そこから進化した子孫である現代の生物のゲノムであればいくらでも採取可能だ」
「でもそれは、古生物のゲノムとはもう別物でしょう」
古生物と現代の生物が別物である以上、その設計図であるゲノムが別物なのは当然だろう。
「無論、現代の生物のゲノムは、進化の過程で祖先である古生物のゲノムとは別物になってしまっている。ここで、進化というのは伝言ゲームのようなものだと思って欲しい。ゲノムが生物の設計図だとして、親から子にそれが伝えられる時に寸分の狂いも無く伝わっていたら、いくら世代交代を繰り返しても生物の姿形や性質が変化するなどということは起こりえない。しかし実際には、設計図を伝えていく過程でどこかが少し変わってしまう。設計図が変わるから、その設計図からできる生物も変わる。それが進化だ。たとえば君達が、ある設計図に書かれていた言葉について、四人の別々の人間から伝言として受け取ったとしよう。その四人が伝えてきた言葉はこうだ」
そう言って、カウフマン研究統括部長は背後のホワイトボードに四つの言葉を書いた。
『左端に三角形を付け加える』
『右上に三角形を付け加える』
『右端に四角形を付け加える』
『右端に三角形を付け加えぬ』
「全員言ってることがばらばらじゃないですかー」
「そうばらばらだ。なぜなら、伝えられていく途中でどこかが少し変わってしまうのだから。だが、どこが変わるのかもばらばらだ。そうなると、これらから元の言葉を推測できないだろうか。例えば、元の言葉の一文字目は『右』と『左』のどちらだと思う?」
「四人中三人が右って言ってるわけですから、それは右なのでは」
モニターの中のカウフマン研究統括部長が無表情のまま頷く。
「その通りだ。同じように、二文字目は『端』、三文字目は全員共通だから『に』、四文字目は『三』となる。こうやって推測していくと、元の設計図に書かれていた言葉は『右端に三角形を付け加える』だったと分かる」
ホワイトボードに『右端に三角形を付け加える』が書き足された。
「古生物ゲノム推測の原理も、だいたいのところはこれと同じだ。複数種の現代の生物のゲノムを比較することで、それらの共通祖先である古生物のゲノムを推測しているというわけだ。そして古生物のゲノムにどのようなことが書かれているか分かれば、現代の生物のうちそれと最も近いゲノムを持つものを探し、その受精卵に含まれるゲノムを書き換えて古生物のゲノムと同じものにしてしまう。すると設計図たるゲノムが古生物のものに書き換えられたことで、その受精卵は古生物として生まれてくるというわけだ」
「話は分かりましたが、それで何で古生物ではないものが派生物として出てくるって言うんです?」
「さっきRRE法はリバース&リ・エボリューション法の略だと言ったが、ここまでで説明したのは二つのRのうち最初の方、リバース・エボリューションの部分だけだ。既に気づいているかもしれないが、この方法で復活させることができるのは、現代の生物の直接の祖先である古生物だけだ。たとえば、君達はこれまでティラノサウルスやケツァルコアトルスと戦ってきたと聞いたが、それらは現代に直接の子孫を残すことなく絶滅してしまった生物種だ。故に、これらの生物をリバース・エボリューションだけで復活させることはできない。そこで登場するのが、第二のR、リ・エボリューションだ。さっき、『祖先』の設計図はこれだという喩え話をしたな?」
カウフマン研究統括部長は『右端に三角形を付け加える』をペン先でとんとんと叩く。
「この『祖先』からは、現在残っているもの以外にも、例えばこのような進化先が考えられる」
ホワイトボードに新たな言葉が次々と書き加えられていく。
『右端に五角形を付け加える』
『右下に三角形を付け加える』
『右端に三角柱を付け加える』
『上端に三角形を付け加える』
「挙げていけばきりがないが、まあこのくらいで良いだろう。こうした進化先として考えられる設計図からどんな生物ができるかをシミュレートし、そしてそれらのうち、実際の化石と形態が合致するものを探す。それがリ・エボリューションだ。例えばティラノサウルスの場合、ティラノサウルスの直接の子孫は現代にいないが、鳥とワニの共通祖先はティラノサウルスの祖先でもある。だからまずは、鳥やワニのゲノムからリバース・エボリューションでそれらの共通祖先のゲノムを推測する。そして、そこから進化した先として考えられるゲノムの候補をあげていき、その中から化石通りのティラノサウルスの姿になりそうなものを選択するといったところだ。ここで本題に戻るが、進化した先として考えられるゲノムの候補のうち、シミュレーションの結果、実在した古生物と合致するものは当然ながらごく一部だ。合致しなかったその他の候補は棄却され、実際にそのゲノムを持つ生物が作られることはない。通常はそうだ」
通常は、という言い方をしたところを見ると、通常でないケースがあったということなのだろう。
ようやく話が見えてきた。
「つまり、あれは進化の結果として生まれる可能性もあったけれど、実際には生まれなかった仮想古生物というわけですか」
「そうだ。そして、もう少し詳しく言うと、こうなる――〝進化の結果として生まれる可能性もあったが、実際には生まれなかった最強の仮想古生物〟。なぜなら、実在した古生物ではないにも関わらずあれが作られた理由は、生存競争におけるその並外れた強さにあるからだ。古代に実在した生物ではないのだから本来なら古生物と呼ぶべきではないが、特定危険古生物として危険度も設定されている」
特定危険古生物。
やはり旧空港島で、それは作られていたのだ。イエナオさんが考えていたような、病原体や寄生生物ではなかったけれど。
「重要なのは、その危険度だ。あの生物の危険度は――A+」
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