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罠とはいっても、簡素なものである。睡眠薬を仕込んだ肉を置いておくだけだ。
嗅覚の優れた動物なら、臭いを嗅ぎつけて勝手にやって来る。仮に視覚や聴覚頼みの動物だったとしても、ここに獲物の死体が落ちていた以上、このあたりを縄張りとしているはずだ。そのうちやって来る可能性は低くない。
人間が近くにいると警戒して近づいてこない可能性があるので、監視カメラだけ設置して俺達は少し離れたところで待機するのだ。
問題は、睡眠薬入りの肉をどこに置いておくかだった。
「どこに置いておくかって、普通に地面に置いとけば良いんじゃないの?」
肉の入った容器を手にしながら、きょとんとした顔でツツジがそう尋ねる。
「いや、それだとさっきのヴェロキラプトルみたいな関係ない奴に肉を食べられてしまうかもしれないだろ。っていうか、車内でそれの蓋を開けるのはやめろ。生肉の臭いが中に籠もる」
ただの生肉ならまだ生臭いだけで済むのだが、臭いで肉食動物を誘き寄せるためと、ついでに経費削減のためもあって、少し腐臭のする傷んだ肉を使っているのだ。この先、相手が罠に掛かるまで車内で延々と待つことになるだろうに、そんな臭いをぶちまけられたら堪ったものではない。
「相手はでかい奴なんだろ? だったら高いところに吊るしときゃ良いんじゃねーの」
イエナオさんの提案は一見もっともだが、これにも弱点はある。
「それでも鳥に食べられてしまう可能性は残りますよ。それに一口に大きいとは言っても、例えばメガラニアとかデイノスクスみたいに這って歩く奴だと背は低いんで、あんまり高い所に吊るすと届かないかもしれません。かといって中途半端な高さだと、ヴェロキラプトルでもジャンプで取れてしまいますし」
これがヴェロキラプトルよりも小さい動物を捕らえたいのであれば、話は簡単なのだ。ヴェロキラプトルには入れないような小さい檻の中に肉を入れておけば良い。しかし、より大型の動物となると、そうはいかない。
ヴェロキラプトルの力では押しても開かないような重めの扉をつけた檻の中に餌を入れておくという手もあるが、相手の生物種が不明である以上、扉の重さをどのくらいにすれば良いのかも分からない。それ以前の問題として、扉があった時にそれを『押して開ける』という行動がとれる動物ばかりではないのだ。
相手の生物種が分からないと、かくもやりづらいものなのである。
「何だお前ら、何をグズグズして……って臭っ! なんでこんな生臭いんだ、ここは? おい! ハルツキ!」
監視カメラを設置しに行っていた班長が、車に戻ってくるなり顔をしかめて怒鳴りつけてきた。
「俺じゃないですよ」
とんだ濡れ衣だ。
「お前がまた、その狼に餌でもやろうとしたんじゃないのか」
「相棒にこんな腐臭のする肉は食べさせませんよ」
「あー、すいません。ちゃんと肉を持ってきてたか気になって、私がここで蓋を開けちゃいましたー」
あまり悪いとも思っていなさそうな間延びした声で事情を説明したツツジを一瞥すると、班長は溜め息をついた。
「それはともかくだ、さっさと罠の設置を――」
「いや、ちょっと待ってください。俺のことは濡れ衣で怒鳴りつけたくせに、なんでそんなあっさり済ませてるんですか」
「えー、ハルツキ君はこんなに可愛いツツジちゃんが班長にむっつり怒られた方が良いって言うのー?」
ツツジが自分で自分を可愛いとか言うのはもういつものことだからスルーするとして、むっつりというのは果たして怒られる時に使えるような擬音だっただろうか。
「いや、そうじゃなくて……。少なくとも、無実の罪で俺を怒ったことについては班長が悪いんですから、そこはちゃんと謝るべきではないでしょうか」
「なんだお前、こんな時に過ぎたことをうだうだと……。器の小さい奴だな」
「他人のことを器が小さいとか言うのは、自分が悪かった時に素直に謝罪できるくらいの器を手にしてからにしましょうか。さあ、班長、良い子だからちゃんと謝ってください。さもないと――」
「さもないと……なんだ?」
「さもないと、俺が班長を嫌いになってしまいますよ」
なんだそりゃ、と横でイエナオさんが呆れたように呟くのが聞こえた。班長は、こちらを睨みつけたままだ。
――が、やがて目を伏せ、小声でぼそりと呟いた。
「…………悪かった」
おや、素直。
こうなると、もう少しからかってみたくなるのが人情というものである。
「え、何ですって? 聞こえなかったんで、大きな声でもう一回言ってもらえますか?」
「だからッ……私が悪かったよ! お前、本当は聞こえてただろう⁉」
「おやおや、微笑ましいですねー」
「これのどこが微笑ましいか。いや、それよりもさっさと肉を置いてこいよ」
「だからその置き場所をどうするかで悩んでたわけですが」
俺達は、餌の設置場所をどうするかで意見がまとまらなかったことを伝えた。
「もういっそ、ヴェロキラプトルとか違う子が持って行きそうになったら、その時は出て行って追い払うとかしたらどうかなー。せっかく監視カメラもつけたわけだし」
「いや、それは危険すぎるだろ。追い払ってる最中に本命が来ちゃったらどうするんだよ」
「いえ、その手は使えるかもしれません」
全員が意外そうな目で俺を見る。班長やイエナオさんはともかく、なんで当のツツジまでがそんな反応なんだ。
「もちろん、実際に出て行って追い払うのは班長の言う通り危険ですが、遠隔で操作できる音響兵器があったはずです。交代で映像を監視して、他の動物が餌を持って行きそうになったら音で追い払いましょう」
「確かにそれだとこっちにゃ大した危険はねーか」
「よし、その手でいこう。そうと決まれば、早速準備を――」
班長がそこまで口にした、その時。
轟音とともに、大きな衝撃が車を襲った。バランスを崩した俺達は、折り重なって倒れる。
「な、何だ⁉ 地震か?」
俺の上に倒れてきた班長が、狼狽えながら口走る。
班長には、見えていなかったのだ。窓の向こうからこちらを覗き込んでいる、巨大な顔が。
相手が窓のすぐ近くに顔を寄せているためと、その巨大さ故に、こちらからは顔の一部しか見えず、何の動物なのかは分からない。しかしサイズから考えれば、まず間違いなくこいつがお目当ての相手だろう。鱗に覆われた皮膚から、爬虫類であることだけは察せられた。解析担当班の見立ては正しかったようだ。
窓から覗いていた顔が、上へと消えていった。
……上?
疑問を感じた瞬間、今度はまさにその上から衝撃がきた。天井が、こちらに向かってべこりと凹む。
そんな馬鹿な。A級であるショートフェイスベアの一撃にだって耐える仕様だぞ。
一瞬、そんな思考が頭をよぎったが、すぐにその間抜けさに気づく。
相手のサイズは、どう考えてもショートフェイスベアよりも圧倒的に大きい。天井が凹むのはむしろ当然なのだ。
しかしメガラニアにしろデイノスクスにしろ、這って歩く動物だ。頭の位置がこの車より上になるということはないはず。いったい何なんだ、こいつは。
「班長、現時点で復活済みの爬虫類で、この車より背の高い奴っていました?」
車体を連続して衝撃が襲うため、立ち上がろうにも立ち上がれず俺の上に倒れたままになっている班長にそう聞いてみた。俺が思いつくのは一種類くらいだが、あれにはこんな真似はできそうにない。
「背の高い爬虫類……ケツァルコアトルスくらいしか」
それは俺が思いついたのと同じだ。だが、あの巨大翼竜には歯も無いし、グリプトドンの甲羅を噛み砕くような真似はできない。大きさのわりに体重も軽めだから、車にこれほどの衝撃を与えることも不可能だろう。
考えているうちに、どんどん天井が凹んできた。このままぶち破られたら、相手の姿も見える。正体についての疑問も氷解することだろう。もっともその時には、俺達の命は風前の灯火だが。
ところが、天井への攻撃は唐突に止んだ。
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