第五幕:その古生物に、未来はあるか

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 十秒ほど経った後、ベルンシュタインは「そうだ、それで良い。仲間の命が惜しければ、そのままおとなしく引き上げることだ」と言った。恐らく、追跡班側から要求に従う旨の連絡があったのだろう。    フトゥロスを取り逃がせば島が沈むことを知っているのは、追跡班側にいる人間ではうちのミナ班長だけだ。大多数を占める警備部門の人間にしてみれば、フトゥロスの脱走阻止に仲間を見殺しにするほどの意義は無い。ベルンシュタインの要求に従ってしまうのも無理はなかった。  警備部門と行動を共にしている以上、ミナ班長も撤退せざるを得ないだろう。一人で勝手に動こうものなら、周囲にいる警備部門の人間達から咎められるに違いないからだ。  この場にいる味方は俺以外全員が意識を失い、離れたところにいる仲間も呼び込めない。ほんの少し前まで、こちらの勝利は揺るがないなどと考えていたのに、今やこのざまだ。  なんとかしてこの状況を打開する方法を考えなくてはならないが、それ以前に、そろそろ息が保たなくなってきているという問題があった。気化麻酔剤が拡散してきているということに気づいて慌てて息を止めたので、そもそも息を止めた時点で肺に空気が大して蓄えられていなかったのだ。    大容量の設置式を使ったとはいえ、こんな吹きさらしの空間でばら撒いた気化麻酔剤はそう長くはこの場に留まってはいられないはずだ。海風だって吹いている。もう息を吸っても大丈夫なのではないだろうか。    そう思う一方で、もしまだこの周囲に麻酔剤が残っていたら、という懸念を拭い去ることができない。その場合、俺も周囲の人間と同様に意識まで失ってしまうかもしれないのだ。そんなことになれば、今度こそ終わりだ。    この不安のせいで、息を吸う決心がつかない。しかし既に肺は焼け付くように痛い。苦しい。酸欠で頭もちかちかしてきた。  その時、何故かベルンシュタインがおもむろに自分のガスマスクを外した。  不可解な行動だったが、ベルンシュタイン当人がガスマスクを外している以上、既に麻酔剤のガスは吹き散らされてしまっているのだろう。  そのはずだ。    覚悟を決めて、息を吸う。幸いにして、俺が意識を失うことはなかった。その事実に安堵した直後、視界の端にひらりと一つの影が舞い降りてきた。 「これだけの人数を、よく一人で倒せたものですね。いったいどんな魔法を使ったのです?」  例の、人語を喋るヒョウ型だった。周囲にある建物の上からこちらの様子をうかがっていたのだろう。それで、先ほどベルンシュタインがあえてガスマスクを外したことの意味も分かった。どこかから自分を見ているであろうフトゥロス達に対して、今ならここに来ても麻酔剤のガスを吸う心配は無いと示したのだ。 「我々第ゼロ班には、サピエンスの反逆に備えて奴らを無力化するための道具や権限が与えられている。その一つとして、使用者がサピエンスとして登録されている情報端末がこちらの端末の近距離通信圏内にある場合、相手の端末を装着者に対する音響兵器代わりにできるというものがある。それを使って行動を封じ、その隙に麻酔ガスを吸わせた。それだけだ。そんなことより――」  この場を制したはずだというのに、ベルンシュタインの声にはなぜか焦りが滲み出ているように聞こえた。 「もちろん、約束は守りますとも。ただし、それはそちらが約束通り私達を行かせてくれればの話ですが」  人語を喋るヒョウ型の隣に、更に三頭、新たなヒョウ型が飛び降りてきた。 「まずはこの三人を橋へと逃がします。この場にいないもう一人が、あの子とともにいる。その意味が分かりますね?」 「いちいち言わなくて良い。その三頭をさっさと行かせろ」  人語を喋るヒョウ型は、フッと人間くさい表情で笑った。そして、他の三頭に向けてこちらには理解できない言葉でなにごとか指示を出す。それを受けて、三頭は橋へと向かった。    駄目だ。このままあいつらを行かせるわけにはいかない。    腕に力を込める。つい先ほどまで全く力が入らなかった腕が、ぴくりと動くのが分かった。吸い込んでしまった麻酔剤が少量で済んだため、既に効果が切れてきたのかもしれない。    この短時間で効果が切れてくるなら、立ち上がれるようになるまでそう時間はかからないはずだ。    そう期待して、手足へ更に力を込める。しかし体を起こすにはほど遠い状態であることが、自分でも分かった。仮に身を起こせたとしても、立っているのがやっとの状態だろう。  万全の状態だったとしても、俺一人でヒョウ型四頭を相手にするのは荷が重い。狭いライナー車両内での戦いではヒョウ型が持ち味である機敏さを十全に活かせなかったためある程度持ちこたえられたが、こんな開けた空間では一対一でも勝てるかどうか怪しいくらいだ。  その上、敵方にはベルンシュタインもいるのだ。  仮に無理を押して立ち上がったところで、すぐに殺されるだけだ。もう諦めておとなしくしていた方が良い。輪読会が出した条件をクリアできないことになるが、こんな状態でヒョウ型とベルンシュタインをどうにかするよりは、輪読会と再交渉する方がまだ望みがある。    頭では、そう理解していた。  それなのに、なぜ俺は立ち上がろうとしているのか。  自分でも、よく分からなかった。  ふいに、ヒョウ型の一頭がこちらへと顔を向けた。  まずい。わずかとはいえ、手足が動いているのを見とがめられてしまったのか。今この状態でヒョウ型に襲われたら、為す術無く殺されてしまう。  だがヒョウ型は、こちらへ向かってこようとはしなかった。それどころかむしろ、慌てた様子で後方へと飛び退いた。そしてそれとほぼ同時に、背後から銃声が響く。橋へと歩を進めていた三頭のうち二頭が、頭から血を噴きながら倒れた。跳び退いた一頭だけが、かろうじてかわしたようだった。  苦労して首を動かし、背後で何が起こったのかを確認する。  警備部門の男が一人、幽鬼のようにゆらりと立ち上がっていた。 「これは、どういうことです?」  人語を喋るヒョウ型が、ベルンシュタインに向けて問いかける。立ち上がった男だけでなく、ベルンシュタインに対しても警戒をしている様子だった。恐らく、ベルンシュタインの裏切りを疑っているのだろう。これまでの会話から考えても、ベルンシュタインとフトゥロス達の間に信頼関係と呼べるものは無さそうだった。 「聞きたいのはこちらも同じだ。どういうことだ? お前達の持っているガスマスクでは、我々が使う麻酔ガスは防げないはず――」  立ち上がった男に向けて問いかけていたベルンシュタインは、そこで何かに気づいたように言葉を止めた。 「どういうことだ、だって?」    警備部門の男はそう言いながら、ガスマスクを勢いよく脱ぎ捨てる。同時に制帽がずり落ち、後ろでくくった長い金髪が風にはためいた。 「どういうことか聞きたいのはボクの方ですよ、ベルンシュタイン班長」  会ったのは一度だけなのに、嫌というほど記憶に残っている声だった。  無理もない。なにしろ俺は地下でこの男と戦った時、一方的に痛めつけられるはめになったのだから。
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