第5話

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第5話

 根も葉もない噂ほど、面白おかしく伝わるものなのかもしれない。  幹部候補生の女性たちとの一件から一週間ほど経ったある日、更紗のロッカーに、身に覚えのない仕事の不備を書き連ねた紙が貼られていた。 『島田さんは、ごみを捨てない。机を拭かない。布巾を片付けない。』 (そんなこと、するわけがない。)  更紗は文面を読みながら、潮が引くように心が白けていくのを感じた。 (…けど、)  ロッカーは工員全員が使う公共の場。ゆえに誰しもがその紙を見ることができる。 「……どうして、」  漏れるのは、嘆息のみだった。    そもそも身に覚えがないことであり、かつ取るに足らないことではある。しかしその架空の不備が、重大事項のように提示されている客観的事実。それは、更紗の立場を悪くするのに十分だった。 (………ホントくだらない。)  更紗は怒りに任せてその張り紙を剥ぎ取り、ポケットにねじ込んだ。そして素知らぬ顔のまま作業着へと着替え始めた。 「……ふ、」  この歳になってまでこんな陰湿なイジメに遭うとは。ただただ嘲笑が漏れる。もう笑うしかなかった。 「………」  工場に向かう通路でも、工場の中でも、更紗に話しかける者はいない。  しかし、端から更紗は同僚たちとコミュニケーションを取ってこなかったため、今さら無視されているのか避けられているのか判別できなかった。 「………」  だが、どことなく稀有な生き物でも見るように、遠目から盗み見られるのはやはり気持ちのいいものではない。 (…こんなとき、長江さんならどうするんだろう。どう書くんだろう。)  ふと、そんな思いが頭を過り、更紗は驚きの中にありながら、少し、泣きそうになった。      ※ ※ ※  昼休憩。  愛車のラパンの中で菓子パンを噛りながら、スマホを開いた。  数日前から読み進めている長江の作品の続きを読むためだ。  作品名『溶けていく時間』  それは、記憶を重ねられなくなった男が、ただゆっくりと年老いていく物語。  主人公の男は、24歳の時にバイクの単独事故を起こし、脳に障害を負った。その影響で、男は記憶を重ねることができなくなっていた。    いくら年月を重ねても、主人公の男だけは毎日、24歳の5月25日を繰り返す。  既に結婚していた妻も、男の中では25歳のままだった。なのに、日々は確実に時を積み重ねてゆき、妻は毎日年老いていく。 『君は、誰なんだ?どうしてここにいるんだ?そもそもここは、…どこなんだ?』  毎朝、困惑と恐怖を抱いて、男は(うずくま)り、声をあげて泣いた。  進まない記憶に縛られ続ける男は、その呪縛から逃れられず、最終話、年老いて死んでいく妻の手を取ることに躊躇した。 「………」  …きっと妻は、絶望の中で死ぬのだろうと、更紗は思いながらページを捲った。  すると、 『あなた、大丈夫よ。毎朝、あなたは私を見ては驚いて、毎夕、あなたは私に恋をしてくれた。こんなに幸せな毎日を過ごすことができて、私は本当に、本当に幸せでした。ありがとう。』  妻はとても幸せそうに微笑んだ。そして怯えながらも恐る恐る手を握った主人公の男に看取られて、眠るように息を引き取った。 「……どうして、」  …ラストを読み終えて、更紗は震えながら泣いていた。 「……どうして、」  長江は、人間嫌いなのだと思っていた。  しかし、『長江洸』という人物は、本当は人間を信じたがっているのではないかと、思えて、更紗は、なお泣いた。 「……う、ううぅ、」  ここに正解などはない。  だが、人に無視されている今だからこそ、長江が人間に希望を見出だそうとしている事実が、更紗の胸には暖かな雫となって、じんわりと広がっていった。  
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