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あちあち
「幸之助さん、コーヒーいりますか」
「うん」
「じゃあ、淹れたら持っていきますね」
「ううん、そろそろ休憩にする。リビングに行くよ」
「わかりました」
***
「はい、どうぞ」
「んー、今日もいい匂い。だいちゃんのおかげでコーヒーが飲めるようになったね」
「紅茶のほうがよかったですか」
「ううん。だいちゃんのコーヒーがいいよ。紅茶は自分で淹れる」
「おいしい紅茶、淹れられるようにがんばります」
「紅茶は僕に任せてよ。ひとつくらい得意なものがないと、ね」
***
「だいちゃん、隣に座ってよ」
「え…っと」
「なんのためにふたり暮らし始めたの?」
「ふたりで過ごすため」
「でしょう。ね、隣に座って」
「はい」
***
「幸之助さん、疲れてますね」
「締め切りが近いからね。
せっかく一緒に暮らし始めたのに、全部だいちゃんに任せて、ごめんね」
「いや、それはいいんです」
「だいちゃんだって忙しいのに。もう1か月も過ぎちゃった。これが終わったら、僕もやるから」
「もうだいたいの手続きは終わってます」
「…ごめんね」
「俺、謝られるより」
「ありがとう」
「うん。そっちのほうが好きです、幸之助さん」
***
幸之助と広大は出会って1か月で一緒に暮らすことを決めた。
どちらかというとふたりともおっとりした人物だったので、突然のこの展開を周りは予想もしていなかった。
新卒で入社したばかりの広大はそれだけでも大変だと思うのに、引っ越しについては積極的に動いた。
ライターの幸之助の仕事が切羽詰まっていて、身動きが取れなかったからである。
また幸之助はしゃんとしているようで、その実、あまり生活力がなくいろんなことに無頓着だった。
おっとりで無頓着な幸之助も仕事の目途がつくと、次第にあれこれ気がつくことがある。
広大と手をつないだことはあるが、それ以上のことをしたことがない。
広大といると温かい気持ちになって、心が穏やかになり、会話が少なくても気にならないくらい満足していた。
しかし、いくら仕事が忙しかったとはいえ、つきあうことになり一緒に住むことにまでなっている成人男性がふたりいて、それでいいのか。
ふとそれに気がついたとき、幸之助は焦って10か月吸っていなかったタバコに火をつけてしまった。
帰宅してきた広大に喫煙のことがバレてしまい、幸之助は後ろめたい気持ちになったが広大はそれについてはなにも言わず「できたらベランダで吸ってくださいね。あと灰皿使ってください」とだけ告げた。
***
「あれ、だいちゃん?今日、いつもより早くない?おかえり」
「ただいま帰りました。幸之助さんの仕事が無事に終わったから急いで帰ってきました」
「うん、お陰様で終わったよ。だいちゃんにはお世話になりました」
「なにか作りたかったけど時間なくてデパ地下で買ってきました」
「いや、僕のほうが家にいたのに、ごめん、さっきまで寝てた」
「いいんです、寝不足だったでしょう。お風呂入りますか」
「いや、シャワーを軽く浴びたから今はいいよ」
***
「幸之助さん、どうかしましたか」
「なにが」
「もう酔っちゃいましたか。海鮮焼きそば好きなのに、あまり食べてない。調子悪い?」
「ううん」
「ほんとに?お酒弱いのに、ビール飲み過ぎてませんか。明日、つらいのは幸之助さんですよ」
「……うん」
「徹夜続きだったから今日は早く寝ましょう」
「………で?」
「ん?なんて言いましたか」
「ひとりで?」
「ひとりで寝たほうがゆっくりできるでしょう」
「僕たち、つきあっているんだよね」
「はい。俺はそのつもりですけど、違うんですか」
「手はつないだよね」
「はい。5回目のデートで。早かったですか」
「よく覚えてるね」
「緊張したし、嬉しかったから。もしかして、いやだったとか?」
「ううん、僕も嬉しかったよ。そうじゃなくて」
「ん?幸之助さん、大丈夫?歯磨きしましょ」
「まだ飲む」
「もうやめておきましょう。早めに寝たほうがいいです。お茶、淹れますね」
「だいちゃん」
「はい」
「僕って魅力ない?」
「突然、なんですか」
「魅力、ない?年上だから?男だから?マッチョじゃなくて顔も綺麗じゃないし」
「幸之助さん?!」
「手しかつないでない」
「は?」
「……ちゅーもしてない……」
「キス、したいんですか」
「だいちゃんはしたくないのっ?」
「それは…」
「僕はしたいよ。ちゅーももっと先も」
「幸之助さん、酔いすぎです」
「もしかしてもう後悔してる?」
「泣かないでよ、もう」
気がつけば幸之助は広大に抱きしめられていた。
「酔っぱらってシちゃったら、酒の勢いだけ、みたいでいやだったんです」
ちゅっと広大がこめかみにキスをする。腕の中で「あ」と幸之助が小さく声を上げる。
「大好きですよ、幸之助さん」
「僕も好き。だいちゃん大好き」
「俺、性欲強いみたいで」
「……は?」
ぎゅっと抱きしめられているので、広大の顔は見えない。
「アレも人よりデカいらしくて。回数も多いしデカいしで、前、それで失敗してるんで、怖くて」
「だいちゃん…」
「幸之助さんとは失敗したくない。嫌われたくない」
「……」
「キスしたら、止まらなくなりそうだし。幸之助さん、締め切りあるのに引っ越し決めてくれたし。無理させて原稿落としたらどうしようって思ってて」
幸之助は広大をぎゅっと抱きしめると頬を胸にすりつける。
「そんなかわいいことしないでください。俺、しんどい」
「僕、自分のことばっかりだ。ごめん」
「ごめんじゃなくて」
「ありがとう」
「そう」
しばらく続く沈黙。腕と胸から伝わる上昇する体温。
「ちゅーしてくれる?」
「それ以上は今夜は勘弁してください」
「どうして」
「幸之助さんの目の下のクマ、ひどいんですよ。今日たっぷり寝て、それからにさせてください」
「でも」
「当たってるのわかるでしょう。俺もしんどい」
「それなら」
「次は幸之助さんがイヤと言っても、先に進むから」
「……」
「お願い」
「ねぇ、じゃあ、僕もぎゅーしていい?」
「は?」
「もう一回お風呂に入って歯磨きして、おやすみ言うときぎゅーしていい?」
「……あ、ああ、はい」
「ちゅーは?」
「えっと……それは」
「ほっぺにちゅーは?」
「……わかりました」
「やった」
「幸之助さんにはかなわないな」
「だいちゃん、約束」
「はい。お茶飲んで少し酔いを醒ましてください。海鮮焼きそば食べます?」
「うん」
「温めましょうか」
「うん。それくら僕やるよ」
「座っていてください。俺、今ふわふわしているからちょっとキッチンで頭冷やしてきます」
「……え」
広大はまたぎゅっと腕に力を込め幸之助を抱きしめると、腕をほどいた。
幸之助がぼんやりしていると、広大は海鮮やきそばの皿を持ってキッチンへ向かう。
一瞬だけ幸之助を見つめた広大の目に、見たこともない熱が灯っているのに気づき、幸之助は赤面した。
だいちゃんがあんなにあちあちなの、知らなかった。
おしまい
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