魔性

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 あの子が泣いている。  いつも最後まで教室に残っているのは、ああやって自分の席でひとりで座って、校舎の向こうから聞こえてくる運動部の掛け声、吹奏楽部の演奏、おしゃべり、足音、自転車のブレーキ、そういう音を聞きながら泣くためだ。  今日もあの子は泣いている。  原因は、もちろん、わたしだ。  今日、後輩の女の子に、ちょっとちょっかいをかけてみた。化学室の準備をしているところを見かけたので、声をかけてみたのだ。  その子は入学した時から目立つ存在で、わたしが個人的に目をつけていた。背も高いし、ほっそりしてる。作り物めいた美しさだ。そして向こうも、わたしのことを覚えていてくれたみたいで、打ち解けるのにそんなに時間はかからなかった。 「先輩、こんにちは」 「こんにちは」 「どうしたんですか?」 「次の時間、わたしたちのクラスがここを使う予定でね。先生に頼まれて、ちょっと準備をしに」 「そうだったんですか。では、お邪魔にならないように、私はこれで……」 「まあ、ちょっと待ってよ。せっかくだから、ちょっと話そうよ」  あとは簡単だった。ちょっとそれらしい台詞を重ねて、少し手を触れれば、勝手にその気になってくれる。服の裾を少し握ってこちらがわに引き寄せ、唇と頬の境目あたり、いちばん微妙なところにキスをする。そういうことを知らない女の子の、パニックになった荒っぽい息遣いが直に聞こえてくる。  それを、ちょうど化学室にやってきた「あの子」が見ていた。後輩は顔を真っ赤にして逃げ出していく。 「なに……してたの」 「なにも? ただ、化学の試験についてのアドバイスをしていただけ」 「あ、そ、そう……そうなんだ。よかった」 「なに勘違いしてるの?」 「勘違いなんてしてない」 「うそだ。嘘をつくとき、いつも泣きそうな顔になってるよね。ばればれだよ」  そうして、今度は唇どうしを重ね合わせる、ほんとうのキスをする。するとあの子はほっとしたような顔で、うるんだ瞳をわたしに向ける。 「わたしが、きみ以外の女の子を好きになるはずないじゃない」  それはほんとうだ。  わたしは、あの子が泣いているのを見るのが好き。わたしに傷つけられて、悲しんで、痛くて、辛い目にあって、めそめそ泣いている姿が、いちばん美しいと思うから。  たぶんあの子もわかっていて、わざわざ教室で泣いているのだ。わたしがやってくるのを知っていて、見せつけるように。 「ごめん、遅くなっちゃった」  わたしが声をかけると、わざとらしく涙を拭って、それから、まるで泣いてないみたいな一番の笑顔で立ち上がる。 「ううん。だいじょうぶ」 「じゃあ、帰ろうか」 「うん」  そうやって笑いかけないで。  あなたの笑顔ほど、見ていて嫌な気持ちになるものはない。これは駆け引きなのだ。涙を見るために、あなたを笑わせないといけない。  わたしには密かな夢がある。  いつか、あなたをこれまでにないくらい傷つけて、どろどろになるまで涙を流させて……  その涙を、最後の一滴まで啜ってやることだ。それはあと一年……卒業して、わたしたちが他人同士になるまでの辛抱だ。 「今日はびっくりしちゃった。ごめんね」 「え?」 「化学室で、あなたが……後輩の子に、その……キスをしてると思って。ごめんなさい、あなたのことを信じられなかった。ほんの少しだけ、あなたを疑ってしまったの」 「今も疑ってる?」 「ううん。信じてる」 「なら、それでいいよ」  わたしたちはまたキスをする。  こんなのなんてことない。あなたの涙を啜るためなら、なんだってする。それだけあなたの涙は、美しいのだから、自信を持って。わたしは、そんなあなたが大好き。
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