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緋ナが突然の交通事故で亡くなってから、今日でちょうど五十日が経つ。
それまでは、緋ナの家族の人たちが忙しそうにしていたけれど、ようやく落ち着いたとわざわざ連絡をくれたので、わたしは緋ナに会いに行くことにした。
「どうぞ。ゆっくりしていってね」
緋ナのお母さんは、前に会ったときよりも随分やせてしまっていた。
無理もないだろう。突然、娘を亡くしたんだから。それに、葬儀や遺体の処理、遺品の整理もあって、ずっと働き通しだったに違いない。だけど、わたしと話している時の目は、ずっと変わらないままだった。わたしが緋ナと一緒になりたいって、そう告げたときも、何もためらわずに応援してくれた時の、お母さんのままだ。
ちいさな畳敷きの部屋に不釣り合いなほど新しく、ぴかぴかと光っている、緋ナが眠っている仏壇。大きな遺影ディスプレイは、まだ黒く閉じたままだ。
「緋ナ。わたしだよ」
カメラを覗き込むと、低いうなりと共にディスプレイに光が灯る。
青瑠璃の花瓶にたたえられた冷却水がごぼごぼと泡を吐きだし、仏壇のあちこちのLEDが灯り、厳かに光る。
やがて、遺影には、最後に会った時のままの緋ナの顔が浮かび上がった。目を閉じていて、まるで棺の中で眠っているときの顔を覗き込んだ時のようだ。――そんなことは出来なかったけれど。
緋ナの身体は凄惨な事故で、原形をとどめないほどにぐちゃぐちゃになってしまったらしいから。わたしはもちろん、家族にも見せられないようなありさまで、DNA鑑定をしてはじめて「それ」が緋ナだと分かったというほどだ。
だからわたしは葬儀や通夜の間も、緋ナの身体を、顔を、まったく見ていなくて、ずっと閉じられた木の棺越しに想像するしかなかった。遺影に写った緋ナの顔は、いつもわたしといっしょに過ごしていたときよりもちょっぴり若くて、高校を卒業したころに撮影されたものらしかった。
笑顔がかわいい緋ナ。
笑うと目じりに特徴的な形のシワができる。それは、昔から変わっていなかった。
――――そんな緋ナの顔が、今また、目の前に現れる。
だけど写真じゃなくて、ほんとうに生きているような顔で。
画面越しでも、緋ナと目が合ったとき、わたしはそれまで何とか我慢してきた気持ちが一気に溢れてきて、ぼろぼろと目から涙がこぼれた。
「緋ナ……わたしだよ。会いに来たよ」
画面の中で、緋ナは目をぱちぱちさせている。
――分かっている。これが緋ナ本人じゃないってことは。これはあくまで、生前に記録した人格データと、DNAを元にした成長記録から復元した、ただの模造人格。本人じゃない。人間は生き返ったりしないのだ。
だけど、それでも。画面の中にいるのは、生前の緋ナそのものだった。目の形も、左右で微妙に長さの違うまつげも、薄い唇も――
見れば見るほど、涙がぼろぼろと止まらなくなってしまった。
「ご、ごめんね……せっかく会いに来たのに……」
わたしは、申し訳程度に施した化粧が崩れるのもためらわずに、しっかりとカメラに向き合った。
「あのね、緋ナが頼んでた家具がたくさん届いたの。ベッドとか、箪笥とか、本棚とか……どうしようかなって。どれもふたり用でしょ? それに、洋服もたくさん残ってる。緋ナのお母さんは、貰っていいよって言ってくれたけど、わたしだとその……サイズが合わないからさ。でも、買ったばっかりで売っちゃうのも、なんだか……」
『あなた誰?』
緋ナの顔には、ぽかんとした純粋な疑問が浮かんでいた。
カメラのレンズが、かすかに音をあげてピントを合わせようとする。だけど、このカメラに写っているわたしを、緋ナは認識しかねていた。
『家具とか、洋服とか、何の話? ごめん、分からない』
緋ナが記録していた人格データは、あの遺影を撮影した当時――高校生当時のもので最後だ。高校生の時、わたしたちはまだ出会っていない。だから、「この」緋ナが、わたしのことを知っているはずがないのだ。それは分かっていた。
それでもまた緋ナと喋れるだけでうれしい。
「あのね。今度、緋ナの部屋を模様替えして、そこにあなたの遺影を置かせてもらおうと思っているの。時代って便利よね、あなたはここにいても、どこにでも行けるんだから」
『ねえ、なに……? 怖いよ』
「そうだ、そしたら、お部屋を模様替えしなくちゃいけないよね。緋ナはオレンジ色が好きだったよね? カーテンもオレンジ色にして、それからベッドもちゃんと整えなきゃ。毎日……だと、迷惑だろうから、たまにその部屋で一緒に寝ようね。それでいいでしょ」
『ちょっと! いい加減にしてよ、あなたはいったい……』
「あ、お母さん。はい、ありがとうございます……はい、よかったです、いっぱい話せて。はい、ありがとうございます……ほんとうに……」
『お、お母さん……なに、何なのその人、わたしの何なの!』
「じゃあね緋ナ。また迎えに来るからね」
『嫌ぁ……!』
高校生のときの緋ナは、わたしと出会っていない。
その人格にいま、「わたし」がどういう人間なのかを説明したら、それはわたしの好きだった緋ナではなくなってしまう。矛盾が生じる。その時こそ、緋ナは本当に死んでしまうのだ。わたしの思い出の緋ナが、遺影の緋ナに上書きされてしまう。
わたしたちは永遠に分かり合ってはいけない。
それが普通なのだ。だって緋ナは、もう死んでいるんだから。
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